肩幅の横移動
希死念慮という言葉を耳にするようになった。僕自身がイタリアに長く居住して、ほとんど日本に帰国しないこと、さらには昨今の社会情勢のスピーディな変化を考えると、この言葉はもう随分以前から聞かれたのかも知れないが、イタリアでこの日本語を聞くことはまずないし、僕が愛用している広辞苑第五版にこの言葉は無い。
パンデミックが宣言された頃から少なくとも二年程は社会全体がストレスフルであった。有名人の自死が相次ぐこともあったからなのか、とにかく現代社会の生き辛さは現実問題としてないがしろにできない状況にあるというのは、もはや社会的に認知されているようである。
それは本人の甘えだ、と一蹴する方もおられると思うし、戦前や戦後の厳しく貧しい時代を生き抜いた方々からすれば、そういう感想を持つこともやむを得ないかも知れない。
僕自身は戦前戦後を知らないが、現代社会が抱える病は少なくとも実存していて、しかもなかなか厄介で手強い病だと僕は認識している。
最終的に自死にまで至ってしまう場合は、およそ自身の行動に制御が利かない状態になっているはずで、理性で行動を制御したり、行動の結果を推測することもなければ、行動そのものについても自意識的ではないのかも知れない。つまり自意識が極度に歪んでしまっている状況と思う。
アルコールや麻薬は自意識を歪ませる物質で、だからこそ摂取には十分な注意が必要である。一方で自死に至ってしまうような精神状態では何が自意識を歪ませてしまうのか。
望まれない環境下でストレスを受け続けると脳は機能不全に陥り、最悪の状況では結果的に身体ごと自滅を選んでしまう。悲劇であるが皮肉でもある。
何から何まで、自分を取り巻く全ての事象が悉く自分に重圧をかけてくる。もしその状況が現実なのだとしたら、そんな状況で生きるのは苦しいだけだ。微かな希望も見出せないと思ってしまったら、それはもう文字通り終わりなのである。あらゆるもの全てを投げ捨てたい、という衝動がつまりは希死念慮なのかも知れないが、そうだとしたら、この言葉そのものが悪い意味で自意識に魔法をかけてしまいそうな気もする。
大きな惑星がその重力であらゆるものを自分自身に引き寄せるように、全ての負の重圧がただただ自分へと向かって集まってくる。そこから逃れることと自分の生活の基盤を失うことが直結しているような場合は、その重圧の全てを受け止めて圧し潰されるか、そこから逃れて全てを悉く失うか、の二択を迫られてしまう。
そして脳は機能不全に陥るのだろう。
今あるその立ち位置からさっと横に身をかわすことが出来さえすれば、きっと希死念慮は架空の言葉になるのだろうが、その立ち位置から逃れることは云うほど容易いものではない。
もしも肩幅の分だけでも横移動ができて、自分の意志で、自分の力で再出発を望めるのならば、もちろんそれに越したことはないが、現実はそう単純ではない。
少なくとも人間が文字を使い始めて以降の数千年のあいだ、数えきれない哲学者や偉人たちが人生の難しさ、複雑さを説いてきた。生きることが困難なのは現代に至っても変わらず、およそ80億人の全世界の生きる人のそれぞれが例外なく難しい人生を生まれながら与えられている。
もしも、希死念慮という言葉が、追い詰められた人たちにさらに悪い魔法をかけてしまうとしたら、少なくともその魔法を解くおまじないとして、肩幅の横移動という言葉をここに書いておきたい。
コピーライターの方、創意の無い言葉でごめんなさい。