執念という材料

フィレンツェのアカデミア美術館に所蔵されているダヴィデ像を見たとき、ミケランジェロの執念を見せつけられたように感じた。

それは裏を返せば自分が作品の制作を手っ取り早く執り行っているという反省であり、僕の知らないルネサンス時代への郷愁でもあり、何より芸術家としての全てにおける圧倒的な力量の差の自認であった。

ミケランジェロのダヴィデ像はとにかく、圧倒的な存在感と驚異的な生々しさであの場所に立っている。パリのルーヴル美術館にある、素晴らしい演出の展示で命を吹き返した古代ギリシャの彫刻作品、サモトラケのニケ、勝利の女神像は別の意味で唯一無二の存在感を醸し出しているが、ダヴィデ像にある生々しさは良くも悪しくもミケランジェロ個人の力に因っていると僕は秘かに思うのだ。

ルネサンス期の芸術も作品の要素としてパトロンの財力は無視できない。悪い言い方をするなら、作品がお金でつくられたと言わざる得ない部分をどうしても内包していると言える。昨今の巨大建築、中東のスカイスクレイパーやオリンピック開催ごとに世界の主要都市でつくられるスタジアムの類も、一見してそれらがお金で造られたと判るほど、実現に際してそれ以外の要素が潤沢な施工費用ほど重要ではなかったことが感じ取れる。もちろん設計者の夢や施工主の想いもプロジェクトの実現には必要不可欠であるが、それらの要素が財力の必要性に比べるといかにも脆弱であったと感じざるを得ない、という意味での「お金で造られたプロジェクト」である。

ミケランジェロのダヴィデ像も当時のパトロンの財力無しには到底実現できなかったし、財力の介在を否定するつもりも全く無い。巨大な大理石の塊を良い状態のままフィレンツェまで搬送したり、全ての作業工程で多くのアシスタントが実際にその大理石に直接鑿を入れたであろうということも否定できない。それらを考えに入れたうえでも、ミケランジェロのダヴィデ像にはミケランジェロの芸術家としての圧倒的な執念を見出さずにはいられない。

なぜ今更ミケランジェロか、というと、先日、とあるYouTube動画を見て思いもよらずダヴィデ像のあの眼が脳裏に浮かんだのである。

昨今、クラウドファンディングによる資金の調達や、YouTubeチャンネルでの登録者数や再生回数を高効率で増やすことなど、枠に嵌まらない方法での収入確保が注目されているらしい。そういった手段を選択できる間口が広くなったのは有り難いことだが、一方でそれらが大衆化するにつれ、目的を達成できる人とできない人の割合が益々開くことにもなる。

僕が見たYouTube動画は、あるビデオグラファーが自身のYouTubeチャンネルへの登録と高評価を視聴者に懇願していたもので、彼曰く、チャンネル登録者数が伸びれば、YouTube収益も増えて、そうすれば撮影資金を得ることが出来て、高性能な撮影用機材も導入でき、結果として自身のYouTubeチャンネルに然るべき資金を投じた“良い”動画作品をアップできるようになるので、ひいては視聴者の皆さまにも貢献できるようになる、ということだった。

底辺の生活を50年続けているうだつの上がらない自称芸術家が持論を展開するのは誠に烏滸がましい以外の何物でもないのだが、それでも僕はその動画を見て、順序が逆だと思った。ビデオグラファーとして自分にはどうしても映像で表現したい秘めるものがあって、その実現のためにどういう手段と方法が選択可能なのか、抑えきれない表現への渇望を一刻も早くより自分の思い描くイメージにより確実に肉薄できる機材とモデルをどう入手するか、で悩み奮闘しているのではなく、彼はただ撮影機材が欲しく、モデルさんを雇う費用が欲しく、遠征して撮影するための旅費が欲しいのだと直感的に理解できた。もしも彼が潤沢な資金を手にしたとして、そこに一体どれほどの利益が我々視聴者に割り当てられるのか。全くもって想像できなかった。

ミケランジェロのダヴィデ像があれほどにも生々しいのは、ミケランジェロの卓越した技術と表現力によると云えばその通りだが、やはり僕にはダヴィデの眼光にミケランジェロの執念を見る。言葉による説明を凌駕していると言ってしまえば、僕自身の無能を露呈しているだけなのだが、僕の才能薄弱は大いに認めるとして、ダヴィデ像にはどんなに優れた、鋭い解説にも屈しない懐の深さを秘めていると僕は直覚した。優れたソムリエがワインのテイストを表現するかの如くにダヴィデ像の生々しさを言語で表現する美術評論家があっても僕は否定しないし、ソムリエの的確な表現がワインをより深く味わうための指南になるだろうことは想像に難くない。しかし結局のところ、ワインは味わってこそのワインであり、ダヴィデ像はアカデミア美術館で対峙してこその生々しさなのである。そして願わくは、評論家の説明に心打たれるだけではなく、あの大理石の像の生々しさに直接打ちのめされたい。あの眼光を見なければ、ミケランジェロが数年の間ひたすらにその大理石に対峙した執念を感じることはできないし、いくら優れた解説を聞いたとしてもミケランジェロの内なるモチベーションと共鳴することはできないだろうと思う。「凄い」という言葉は形容詞でありながら実は言語で形容できないという自己矛盾を内包する美しい言葉である。