眼を閉じないで
人類の歴史において徹底して孤独と向き合った偉人が稀に見られる。例えば聖ヨハネは砂漠でバッタを食べながら孤独に生活したし、アッシジの聖フランチェスコは山に籠って人との交わりを絶った。いずれも宗教的な自己修練のためであって、人間社会の中で生まれ、育ち、その人生の中で限られた一定期間を孤独と向き合った。
もしも仮に無人島に一人立たされて、一生をその島で一人で暮らすことになったら、我々人間はどんな人生を送るのだろうか。過去にそういった事例があったのかどうかは分からない、というのも、周囲に人がいなければ歴史としても発見され得ないからである。
生物としての人間は本能的に遊び心を備えていると僕自身は考える。家族や友人がいなくとも、きっと人間ならば自分自身の体力と知力をもってして遊戯を発明したであろう。人間には想像する力がある。我々は空想する。無人島でたった一人で生きたとしても、水平線を眺めながら果てない夢を見ることだろう。
たった一人で生きていても、切磋琢磨する悦びや溢れる気持ちを表現する喜びを得ることはあるのだろうか。他人の評価に関わりなく、人は切磋琢磨することに悦びを感じるものだが、人として生きるということの実際が全く不確かな世界で、果たしてわれわれ人間はたった一人で向上心とともに自身を磨き続けることが出来るのだろうか。眼を逸らすことなく夢を描いて追うことが出来るのだろうか。僕がこのことを考えずにいられないのは、例えばバッハはたった一人無人島で暮らしたとしてもトッカータとフーガに代わる何かを生み出し、奏でることが出来たろうか、という疑問があるからなのだ。
残念ながらこの問いに僕は答えを用意できない。こういった話は結局のところ、“もしも”という括弧つきの話になってしまうので、現実的ではないし、どこまで踏み込んでみても空想の域を出ないからだ。自分で実際に身体を張って無人島に移住するにしても、既に50歳まで社会の中で過ごしてしまった以上、実験としてもおよそ参考にはならないし、どこかで生まれた新生児を実験検証のために無人島に残すことなんてできるはずもない。
本質的には“人間の本性とは”という疑問であることに違いないのだが、翻って考えれば人間はそもそも社会で生きるというのが本性ともいえる。よって無人島で完全に孤独な一生を過ごして終えるというのは、社会生活を基盤とする人間の本性と矛盾してしまう以上、人間の本性それ自体をそもそも見出せないという撞着を含んでしまう。
人間は孤独では生きられない、とはよく云われることだが、物理的な生存を確保する、という観点でいえば、太平洋戦争後、グアムの密林に潜んで暮らし続けた横井庄一さんが有名である。横井さんだけではなく、戦後、密林に身を隠し、ただただ生き抜こうとした人たちは存在した。最初に述べた宗教家たちの動機とは異なり、命の危険に晒されての逃避生活である。
孤独と向き合う、という観点では、冒険家の植村直己さんや星野道夫さんを想起するのだが、彼らは孤独な冒険に人生を賭していたものの、一方で他者と交わることにも長けており、社交性という意味でも非常に豊かな才覚を持っておられたようだ。冒険では嫌というほど心細さと向き合っていたからその反動かも知れない。そしてなにより、彼らが孤独と向き合ったのはそれ自体が目的ではなく、エクストリームな冒険を常に望んていたことからの副産物であった。お二方とも40代前半で亡くなられたが、共に、人生そのものに本気で何かを賭けて生きていた方であった。
無人島で生まれ育っていたならば当然、五大陸最高峰登頂など発想すらできないであろう。北極点と南極点を結ぶ軸を中心に地球が廻っていることなど、いくら空想してみたところで、たった一人では思いつく術など無い。
無人島での単独生活を実験することは本質的に意味を持たないが、その暮らしはきっと豊かであるには違いないと思う。架空の島を想像するより他ないが、きっと厳しく豊かな自然そのものだ。そしてそこに暮らすことになった人も、取り巻く自然と同じように厳しく豊かな人になることだろうと想像する。
僕らは皆、社会のなかで生きている。限られた時間をより幸せなものにするために日々努力している。辛いこともあるし、長く生きていれば日々に疲れてしまうのも仕方ない。しかし人生はきっと瞬く間のことである。心細くとも眼を開いて挑戦し続けたいとつくづく思うこの頃である。