健やかであること

中学生になってそれまで毎日短パンで過ごしていた小学生の頃に比べいろいろな部分に変化があったが、そのうちの地味な変化のひとつに、体育の授業の一環として教室で学習する保健体育という科目が加わった。

その保健体育の一番初めの授業で、体育の先生はとても印象的なことをその授業のいの一番で僕ら生徒全員に対して質問した。

「健康ってどういう意味ですか」

詰め襟の学生服は着ているものの、頭の中はまだまだ小学生と変わらなかった僕は、健康の意味すら考えたことがなかったと気付いたのだが、そのあと、先生が幾人かの生徒に意見を発言させ、運良く僕は指されなかったのだが、とにかくも指されて発言した生徒たちの答えを聞くうちに、病気が無くて元気満々な状態が健康ということなのだろうと僕は内心考えた。

そして実際に保健体育の教科書の何ページ目かを開くと、しっかりと健康の意味が定義されていた。一言一句覚えているわけではないので全く正確な記憶ではないのだが、定義の内容はおよそ、「身体的、精神的、社会的、経済的に問題が無く、健やかにある状態」というものが教科書曰くの健康の意味だった。

子供ながらに僕は衝撃を受けた。この健康の定義は中学校で学んだことの中でもトップ3に入るくらい、僕にとっては印象的だった。

衝撃を受けた理由は、個人の置かれている経済的状況や社会的状況も健康の要素であるということだった。お金が無いとか友達に嫌われているとそれだけで不健康という理屈だ。子供ながらに健康とは大人にならないと得られないものだと感じたのだった。あとのトップ2は、青春の入り口付近であったからたくさんのこと覚えたはずなので席を設けたのだが、これといって思い浮かぶことはない。しかしせめてあと二つくらいは何かしらあって欲しいので、今日のところはトップ3としておいた。

そろそろ50歳になる自分が果たして今の自分が健康であるかと問われれば、胸を張って健康ですと言える状態では正直ないが、さりとて不健康であるとも感じていない。身体的には若い頃のようなみなぎるものは無くなったし、精神的にはまだまだ進化させなければならない弱点を抱えている。社会的には常にできる限りこじんまりして面倒を避けたい性分が益々如実になっているし、経済面では明日をも知れないその日暮らしである。

そもそも我々は生まれてこの方、ただ一直線に死に向かって生きている。常々思うのは、自分が健康面でとても良好な状態で命を終えなければならないとしたら、それはとても残念だろうということだ。死後には意識すら無くなるので考えることもできないが、それでも遣り残したことに後ろ髪を引かれることだろう。

しかし、身体も心も衰えきって最後に死に至るのであれば、自分自身、きっと納得いくのではないかと考えている。

自分自身の健康はさておき、僕がこの頃とても気になっているのは、人間以外の生命の健康である。植物や野生動物、あるいは人間に飼育されている家畜や、共に暮らしているペットの健康である。

現代科学の様々な考察や検証から、人類が野生動物を家畜として飼育し始めたのはおよそ8,000年から9,000年前と考えられている。20万年に及ぶとされる人類の長い歴史から考えれば最近とさえ言える。家畜動物のそれぞれは様々に派生して品種改良が続けられているものの、動物種としては殆ど固定されている。例えば人間は馬には乗るがシマウマには乗らないし、身体から取れる食肉の量はきっと多いと思われるヘラジカは、牛のように飼われることがない。単純にシマウマやヘラジカは人間と一緒に生活することが出来ない動物なのである。先人は長い時間をかけて牛や豚や鶏やウサギを食用として飼い馴らす術を得て、また、馬や犬や猫をある意味では日々の暮らしのなかの備えとして飼い馴らした。

馬は人間よりも速く遠くまで移動できるので旅の友として珍重されたし、犬は人間の住まいを野生動物から守る役割を果たしてくれた。猫も同様で、恐らくは収穫した保存食糧を小動物の被害から守るために飼われたのだろうと考えられる。

かれら家畜動物にとっての健康とは一体どう定義づけられるだろうか。

先ず真っ先に思うのは、社会面や経済面は自身ではどうにも対処できない、という点である。飼い主の飼い方次第であるし、食用として飼われる動物に関しては屠殺される身であるという立場上、身体的に最も充実した頃合いに生命を終えるので、僕が先述したとおり、当事者としてまさに残念極まりない命の在り方だ。彼らの精神面の健康を考える、というのは到底答えの出ない難問であろうと予想がつく。肉体的には十二分に大きく育ってもらう必要があるわけだから、生命としてとてもストレスフルな立場にあることは想像に難くない。

一方で人間と暮らしを共にする犬や猫を考えてみると、現代では野生の獣や小動物から人間の資産を保護するためではもはやなく、多くの犬や猫は人間の家族の一員として迎えられ、飼われる場合が多い。忘れてならないのは、家族の一員として共に暮らすものの、彼らはやはり現実として飼われている、という点である。

ひとりの人間であれば成長と共に自身の内面をも育み発展させ、向上心を持って自立する。飼い犬や猫の場合、それが出来ない。

ひとりの人間が成長とともに自立する場合、個人としての存在も尊重されなければならないが、果たして一匹の犬の個としての存在を考えるとき、これもまた一筋縄では行かない難しい問題が隠れている。

犬を個として尊重する場合、犬としての本来的性と、人間家族の一員であるという点で何かしら割り切れない部分が生じてしまう気がする。

無駄か有益かはさておき、人間は問題を生産してそれを解決する、ということを繰り返して、大きく展開した脳の前頭葉を落ち着かせている。言い換えれば、日常生活で問題を作らないように知らんぷりをして、日がな一日を寝て過ごす、ということに満足できない本能を備えてしまっている。一方で犬や猫は、健やかに生きるために必要な戦闘や遊びを日々の生活に取り入れながらも、基本的には寝て過ごす動物である。

福岡正信の著書「わら一本の革命」にあるように、とにかく人間は日常生活の中に問題など無くても、問題を発明してそれを解決するのを云わば種としての生業としている。

穏やかに昼寝をするのは、種として本能に反するようである。

犬が服を着たり、歯を磨いたりするのは、それが必要な状態にわざわざ人間が設えた為である。この状況を俯瞰する場合に、果たして犬の健康とは動物のそれか、あるいは人間のそれか、と問うてしまうのだ。

同じ住まいの中で犬や猫と同居する場合、下の管理は大切なことだが、犬や猫は我々人間が教えることを、どのような仕組みに因るのかは知る由もないが、とにかくも部分的には理解するようで、いわゆる「トイレ」を覚える。前頭前野やらウェルニッケ野と言われても肌感覚でヒトと犬との違いを感じることは難しいが、とにかくも僕らは同じ哺乳動物として、見た目以上に多くの何かを共有しているのだと思う。その共有感覚があるからこそ人間は犬や猫を家族として迎えたいと欲するのだろうが、ある程度の意思の疎通と感情の共有ができたとしても、動物としての個を尊重することは意外と単純でないようにも思う。

動物園の動物たちのように、毎日毎日たくさんの知らない人間たちに見物され、狭い檻の中で生活する場合は、きっと想像を絶するストレスを抱えることになる。実際に水族館のクジラやイルカが限度を超える自傷行為で亡くなってしまった事例もあるし、動物園内で飼育される動物たちの異常行動は数限りなく報告されている。何より彼らは根本的に野生動物であり、家畜動物としてもペットとしても適さない動物種がほとんどである。飼育係のお仕事も然ることながら、動物たちにとってもとてつもない困惑を抱えながらの生活であろう。

他方で飼い犬や飼い猫はそれなりにプライヴェートも確保されているし、人間との共同生活においても数千年の経験値がある。悩ましいのは、目まぐるしく変貌していくこの現代社会において、当の人間ですら生活環境の変化に根本的には順応しきれていない状態で、犬や猫の本性をどう尊重していくべきなのか、ということである。

人間における健康を考えるように、動物たちの健康を考えることは難しい。動物としての本性も、生活圏の環境も、それぞれの立場を我々のそれと置換することが不可能なほどの違いがそれぞれにあるので、保健体育の教科書のように一文で定義できる健康は我々人間にしか適用できない。

例えば野生動物の場合はまず前提として、身の安全は保障されていない。群れの生活ならばボスに可愛がられることが多少の安全保障になるかも知れないが、そうだとしてもそこに契約はない。多くの場合、子育ても人間のそれほどは長い期間を要しないし、夫婦関係にしても可能な限りにおいて多夫多妻制なのではないかと思う。

家族や群れの枠の外では、捕食する者とされる者のあいだにある敵対関係が生存圏内の社会と言えるかもしれない。

時計を信用することもなく、電話はもちろん手紙やメールを受け取ることもない。信用すべきはおおよそ自身の知覚であるから、それらは常に敏感だろう。その日の予定やスケジュールを組むこともないから、生きるために寝る。寝ているあいだもある程度はきっと敏感である。歴史的に家畜として飼われていない動物種は須らく人間との共存が出来ない動物であるから、彼らの健康は基本的に彼ら自身に任せるしかない。

家畜動物やペットの場合、飼い主は基本的に所有している、あるいは同居している動物の生活保障の責任があるといえる。健康の定義は別として、動物たちが健やかに日々を過ごせるよう、飼い主は彼らの生活環境を整えてやることが大切である。このことは意外にも飼い主にとって決して小さくはない負担となる。面倒をしっかり見るには頭数に限界があるという意味である。

飼い犬や猫が妊娠してさらに子供が増えてしまわないように、身体への負担が少ない仔犬子猫のうちに避妊手術を施すことも飼い主としての責任というわけである。

但しこれが人間の子供であったなら一体どうであろうか。女の子自身が母親になる権利、子を産み新しい家族と共に自分自身の成熟へと歩む権利を、物心つく以前に剝奪してしまうということである。社会主義の中国ですら一人までは容認した。

飼い主としての責任と、命そのものの権利と、果たしてどちらを優先的に尊重せねばならないのだろうかと考えがちだが、そもそもこの二つの事項はどちらかを取捨選択するものではない。あまりに複雑化している現代の人間社会では、こういった当たり前の価値が、全く関係のない社会のルールによって圧潰されてしまう。

考え得る限りのあらゆる種類のハラスメントが叫ばれる昨今、我々はますますもって正しくあらねばならなくなった。コペルニクスが地動説を提唱したことの勇気と、彼の知性と意思に改めて感嘆する。我々人間は今、これほどまでに盲目的にしか生きられなくなってしまったのだから。