個性と独創

解剖学者の養老孟司さんは近年の学校教育における行き過ぎた個性尊重に対して苦言を呈している。

個性と独創にまつわる話で、養老さん自身が良く例え話として取り上げるのが、精神病患者の個性の逸話だ。御自身が医者でもある養老さんが精神病棟を訪れた際に見た、入院患者さんの特異な行動の話である。その患者さんは入院病棟の壁いっぱいに自分の大便を擦り付けていたという。これほど個性的な人はいない、というのがその逸話のオチである。個性的であることの行きつく先、ということだろう。養老さんは昨今の行き過ぎた個性尊重で、教育の価値すら否定されつつあるとも言っている。その意味するところは、教育の究極的な目的は常識の共有にある、ということだ。養老さん曰く、個性とは頭の働きだと世間では思われているが、個性とはむしろ身体そのものであって、頭で考えている理屈のほうではない、のだそうである。個性的であることが求められる芸術においては、常識を磨いて多くの人に共感される作品を生むことが本来の芸術である、と指摘している。偉い人は常識を研いでいる、とは小林秀雄の言葉であるが、恐らくはその引用であろうと思う。

芸術の興隆は文明の発達と共にあり、芸術は都会の解毒剤としての存在、という側面も養老さんは言及している。文明と芸術は社会が発展する際の両輪として機能してきたわけである。

特に近代以降は科学や芸術において常識にとらわれないものの見方が要求され、芸術作品においては常識を打ち破ることが作品成立の必要条件かの如くに、それまでの社会常識はもはや軽蔑されるべき対象とすら考えられていたことに対し、小林秀雄はものの本質に至るには倦まず怠らずに常識を研ぎ澄ますことこそが肝要、と近代的慣習に異論を唱えた。

人類社会には常にこの類の異論反論のせめぎ合いはつきもので、対極にあるもの同士がシーソーのように興隆、逆転を歴史的に繰り返してきた。一方に極端に傾くと、反勢力が勢いを増して興隆してくるものだ。養老さんの苦言も小林秀雄の異論も、行き過ぎた妄信に注意を喚起するためのシーソーのバランス取りと言える。

芸術家のする仕事が芸術作品であるとカテゴライズされる以前から、人類は常に創作の欲求をその内側に育んできた。芸術とは芸術家が発明した行為ではなく、人類の本能的な創作欲求がそもそもの起源である。それは今日でも変わらないであろう。その意味で、芸術家の仕事とは人間が人間であることによる創作行為そのものであると言える。

財津和夫さんの作品に”切手のないおくりもの”という曲があるが、あの歌詞にあるように人生はときとして、あるいは本質的に切ないものだが、その切なさを見事なまでに軽やかに歌い上げている。人生の切なさは古今東西、きっと誰もが経験してきた事実なのだが、あれほどまでに朗らかに美しく歌い上げた人がいなかったからこそ、多くの人の心を動かしたのだと思う。しかしながら世の中のほとんどの人は愛する人にこんな素敵な歌をプレゼントしたいと発想することすらできない。 芸術家が個性的なのではなく、もしかしたら多くの人が人生を過度に冷淡に諦観して過ごしてしまっているのではないだろうか?

優れた音楽家は、たとえ歌詞として唄っていなくとも、その奏でる楽器と共に心を唄いあげる。そのメロディは想いの詰まった歌声そのものである。歌詞に意味を託さずとも、そのメロディで様々な情動を表現できるのが音楽家だ。今は遠くに行ってもう会えない大切な人にどうしても届けたいものがあって、財津さんはそれを歌にした。本当に届けたいものは礼状やお歳暮なんかではないのだ。もしも自分が、遠くに行って今はもう会えない大好きな人からそんな音楽を贈られたら、どんなに勇気づけられ胸いっぱいになるだろうか。

愛する人にどうやって自分の想いを伝えるか。自分に能う限りの最高の方法で想いを届けたい、と強く願い、それを実現し実行できるのが本来の人間の能力、我々人間の姿であるはずなのだ。

アート作品というと、奇抜なアイデアや方法で産み出された、ユニークでインテリジェントなワークと思われがちである。それを担うのが芸術家と呼ばれ、その仕事がアートと考えられている。しかし翻って考えれば、アートは常に芸術である以前に人間の立ち居振る舞いであり、人間の仕事そのものである。

養老さんは日本を代表する優れた常識人であるのは言を俟たない。その養老さんが1989年に出版した、恐らく養老さんの著作の中でも最も重要な作品のひとつであろう唯脳論は、とても難解な文章ではあるものの、内容は文字通り眼から鱗が零れ落ちる画期的で革新的なものであった。難解ではあるもの、良く読めば唯脳論の概念は多くの人が納得できる理論である。しかしながら養老先生以前には誰一人として言及することがなかった特異な内容で、その意味で養老さんの唯脳論は個性的であり独創的である。しかしながら養老先生の云うところの”壁に大便”ではない。

価値の共有、共通の理解、常識の洗練。どれも大切なことだが、一方で現代はあまりにもたくさんのものがカテゴライズされ過ぎている。価値も概念も感覚も行為も枠に閉じ込められている。そうなってしまったのは故意にではなく、発展するものがエントロピーを抑えなければならない必然であって、致し方ない部分がほとんどなのであろうと思う。でも、我々は与えられた一度きりの命と、本来もっともっとおおらかに寄り添うことが出来ると僕は思っている。