宿命
日本人に生まれることが世界のどこか他の国に生まれることよりも恵まれているかどうかは分からないが、とにかくも日本人に生まれ、机に向かって学習することもなく日本語を習得した。母国語での会話はおよそ誰にとっても同じことと思うが、耳で聞き取り、自らも言葉を発声しながら幼児の頃に時間をかけて自然に習得する能力である。
赤ちゃんが呼吸を始めるのは出生とほぼ同時だが、これは誰かに教わるものではない。自然の営みであり自然な行為である。保健体育で教わらずとも動物が交尾できるのはそれが自然な営みだからであろう。
人間が言語を習得するのは自然な営みであるが、日本語そのものは太古の昔から変異を続けながら脈々と伝承された日本特有のツールで、人類すべてに共通のものではない。日本人として生まれた場合には自然に身に付けるものである。今や世界の共通言語は英語という認識が一般的だが、かと言って赤ちゃんが望んでも、あるいはその子の両親が望んでも、両親の話す言語に赤ん坊の言語習得は依存する。宿命という言葉があるが、赤ん坊が各々の生まれた国の言語を自然に身に付けてしまうことこそ宿命ではないだろうか。
一方で筆記は、言語における会話能力を習得した後に、後天的に学習しながら習得するものである。従って識字はほとんどの場合、強制的に身に付けさせられるものである。会話能力としての言語は幼児が両親や家族と接する間に自然に身に付けるものであるのに対し、識字能力は社会的要求を伴って習得する。ほとんど場合、学校で習得するものだが、学校が十分に整備出来ていない地域では当然ながら識字率は低い。社会生活において話し合いや意見交換、あるいは無為な誤解を生まないためにも言葉で説明することの重要性は皆知るところで、そのコミュニケーションが時空を超えて実現できるのが識字の恩恵である。
どの国の言語を母国語とするか。文字の読み書きができるか。我々一般的な日本人にとっては当たり前のこれら言語能力も、実は生まれた環境に大きく依存する宿命的な要素と言える。
話は大きく飛んで、画家のゴッホは僕の大好きな芸術家の一人だが、ゴッホの生涯を思うと僕は宿命という言葉を想起する。
彼が画家として生きていくと決めた頃、パリでは印象派のルノアールや点描画のスーラが台頭していて、画壇の主流は絵画の可能性を改めて模索していた頃にあたる。フェルメールがCamera Obscuraを利用しながら風俗画の作品を残したのはそれより2世紀も遡るわけで、ゴッホの頃にはそのCamera Obscuraの画像を固定する技術も開発されていた。そのなかでもダゲレオタイプと呼ばれる写真技術は世界で初めての実用的な写真術として普及したものだが、奇しくもその特許をフランス政府が買い上げて世界に普及させていた。当時のパリの画壇にとっては絵画の存在意義を真剣に再考せざるを得ない時代と言うほかない。
ゴッホは画家としてのスタートに出遅れたが、それでも画家として生きる覚悟を決めてからはひたすらに技術の習得と修練に明け暮れ、遅れを取り戻すために出来得る限りのあらゆる努力を重ねた。もちろん、当時の画壇の主流たちの作品からも自身に吸収できるものは何でも取り入れようと努めていたが、彼の独特な性質と性格は、彼に何でも器用に取り入れることを拒んだ。ゴッホが書き残した膨大な手紙を読めばわかるように、彼の情熱はほとんどネズミ花火のような激しさで、作品制作も自身の情熱の火が燃え尽きる前に描き切らねばならない制約があった。長時間丹念に忍耐強く描く手法は、彼にして取り入れることのできない異次元の技法であったろうと思う。蠟燭のようにゆらゆらと、しかし常に安定した光を長い時間維持することはゴッホには能わなかった。キャンバスを色の点で埋め尽くすことはゴッホの生まれつきがそれを拒んだのだろうと察する。
技法も然ることながら、前述した通り、当時の画壇は絵画の存在意義を問い直す重要な時代でもあって、台頭する写真には不可能なこととして、ゴッホは絵画のなかに被写体のあるいは画家自身の情緒や感情を封入しようと努めた。思い込みの激しい性格でもあったゴッホは、作品に対峙するときはほとんど常に、はちきれるほどに膨らんだ想念の虜になって絵筆を走らせていた。彼にとっては、作品に真剣に対峙すればするほど情緒の封入という要求に縛られたのではないかと思う。
彼の作品ほど、画家自身の性質から抜けられなかった絵画を僕は知らないし、産まれた場所も、時代背景も、人としての性格も、どれ一つとして選択できないものの虜となって、どうやってもそれ以外の描き方は出来ず、宿命のままにキャンバスと対峙した画家だったと僕には感じられるのである。
彼の生涯は波乱万丈で紆余曲折を経たが、そうだとしても彼には他の道が無かったのだ。右脚の次には必然的に左脚が前に出るのと同じように、彼が頭で決断するよりも先んじて、生涯は彼の命が望むままに、その宿命を貫いたのだと思う。
生まれと育ち、というのは確かに区別できる異なる要素であり条件だが、一人ひとりの人間は言語習得から始まり、多くのことを限られた条件、あるいは状況のなかで、各々が自分なりに歩んでいく。正しいか間違いか、上手か下手か、と振り返れば当然、下手に歩み間違い続ける場合もある。但しそれはいつも振り返った場合に気付くもので、その時点では何かしらそう歩むよう迫られていたのは殆ど確かである。歩きづらいと気付いた頃にはすでに悪路の只中で、そのとき初めて自分の間違いを自覚するのだ。
不味く間違えた過去を取り消すために戻ることは能わないが、その後の悪路に背を向けず歩を進めることが現実として最も重要な筈である。克服できるかはもちろん自分の努力次第であろうが、状況が好転して助けられることも無くはない。もしも万が一、その悪路の先が行き止まりだったなら、慌てずに良く状況を飲み込もう。人生は対戦型ゲームではない。藤井九段相手の将棋のように確実に状況が積んでしまうことはきっと無いはずだ。そもそも人生は生まれた瞬間から終わりへと一方向にしか進めない。終点に辿り着くまではとにかくどこかへ進むことが出来る。
全ての行程における岐路の選択肢は有って無いようなもので、振り返るとそれらは運命のようでもあるし宿命のようでもある。
Destinyという単語は運命、宿命と訳されるようだが、今ここでどちらがどう、という言葉の再定義をしたいわけではない。言葉よりも事実がこの世界を圧倒的に先んじているのを、ただ改めて実感するのである。