目標
現代社会は何をするにも結果が問われる社会である。どうすれば望むような良い結果を得られるか、そのノウハウがあるのなら是非とも知っておきたい、というのは極めて自然なことと思う。
良く云われるノウハウは、具体的な目標を明確にして、どういったアプローチでいつまでにどの段階に至るかを、より具体的な方法とスケジュールをもって計画すること、明確な具体性が最も効率的に確実に目標に到達できる、というものである。
到達したい目標地点が100%自分の努力次第で辿り着けるような場合、具体的な計画、スケジュール、手段をあらかじめ設定するのは大いに役立つであろうと思う。
一方で、到達したい目標が100%自分次第とは言えない場合、例えば天候の変化がとても激しい山の山頂到達、極端な話でいえばプロ野球選手との結婚、あるいは株で儲けて欲しいものをいつでも何でも買える生活、というような目標は、自分の努力とは別に、割と大きなウエイトを占める他の要素が好条件で見事にマッチしない限り、達成できない内容であって、それらの要素を丁寧に分析してみると、目標達成の可能性は想像していたほど身近なものではない、ということが判るはずだ。世の中の多くの言説は、自分次第ではどうにもならない要素を軽視していたり、さらに悪い場合は、軽視どころかそれらの要素の存在を無視していることすらある。
もしも自分の努力と正しい計画、正しいアプローチ、正しいスケジュールさえ整ってさえいればどんな目標でも達成できる、というのであれば、エベレスト登山がいかに難しくとも、アタックする誰もが山頂に到達できることになる。しかしご存知のように結果はそうではなく、何度挑戦しても運に味方されなかったり、最悪の場合は命を落としてしまうことすらある。
プロスポーツ選手と結婚したいと願う人の数は、選手の数の何百倍、あるいは何万倍だろうか。もしもそれらの選手が数万人の中から自由に、しかしたった一人だけを選ぶとしたら、あなたがまさにその人物になり得る条件を導き出すのはほとんど不可能であるように思える。行き当たりばったり、というのは計画して得らるものではない。
株で儲けることもまた然りで、その条件として、失敗する人が大多数で成功する人が圧倒的に少ないからこそ、大儲けが実現するのであって、その意味で大儲けというのは常にメソッドが存在しない現象であるとも言える。あなたには株で儲ける才覚が全く無い、と言っているわけでは決してない。単純に自分の努力や才能とは別の、制御することの能わない運、というような要素が意外と大きなウエイトを占めているかも知れない、という注意喚起である。
もちろん、目標に向かって努力することはとても大切で、生きるためには欠かせない要素である。明日の食料を獲得することでさえ、自分の努力の結果であると言える。しかしながら、例えば狩りをして獲物を捕らえる場合、あるいは農耕で食料を生産する場合においても、常に自分の努力以外の要素は介入してくる。これまで数十万年を生き抜いてきた人類は、経験的に努力の方向性をその都度修正したり、臨機応変のプランやスケジュール見直しに対応できる範囲のもの、つまり目標地点としてある程度の柔軟さを備えた到達地を開拓してきた。
得られる結果はいつも一様ではないので、いつの時代でも繁栄と衰退は見られたのだが、努力の成果が実る場合も実らない場合も、全く同様に自然なことだと認識していた。
その点で、現代社会に生きる僕らは率直に言えば世界を甘く見ている節がある。何か途轍もなく大きな要素をうっかり見過ごしているように感じられてならない。
生きるために基本的に必要な事柄に従事するこれら、今で言う一次産業や二次産業に長く携わっていれば、エベレスト山頂よりもさらに高く険しい目標などなかなか立たないだろうし、そもそもそんな高みも困難も存在しないだろう。途方もない目標ももちろん実現する可能性を否定はしないが、到達できたら儲けもの、程度に考えていた方が健康的だと思う。絶対にそこに到達しなければ自分に価値はない、というのはきっと間違いだ。世間が与える価値は世間の都合に左右されている場合が多い。道端に咲いているタンポポの価値は顧みられることはないが、それでもタンポポは自身の生を立派に全うできる。生きる権利もへったくれもない。生きるとは単純に明日を迎えることだろう。それが例えばカントウタンポポだったら途端に愛着が湧くに違いない。それが自分と他者との関係だ。
第三次産業がこれほどまでに発展してしまった世の中では、価値を判断する基準も、明日をどう迎えたいかという動機も、一人の人間の枠を逸脱してしまう。明日の今頃はパリのシャルルドゴール空港だから、今夜はホテルのお寿司で我慢しよう、というスケジュールも、いったいどれほどの自分以外の要素、人やモノが予定通りに運行しなければならないのか、想像を絶することがもはや日常の当たり前の条件になっている。
もしもの話として、例えば通信用の電波が動物の微細な細胞構造に変異を起こしているとしたら。これは全くの作り話であるが、卵子と精子が受精卵となって静かに細胞分裂を始めるときに、世の中に溢れている通信用の電波が、その細胞分裂を狙い撃ちして阻害しているとしたら。我々は便利に生きることと引き換えに知らず知らず子供を葬っていることになる。繰り返すがこれは僕の作り話で全くの空想であるが、それでも、現代社会には何か得体の知れない大きな何かが見過ごされているように思えてならない。
いわゆる第一次産業以外の、例えば大工さんや陶器職人さん、道路や水道を整備する土方職人さんのような二次産業ならば、一次産業との交換が成立できると思うが、現代のほとんど全ての第三次産業は、直接の交換成立が困難である。必然的にそれらの交換は貨幣に頼らざるを得ない。最も重要なことは、この貨幣が我々人間の努力の結果で得られたものではなく、地球を貪って獲得している財産であるという事実で、この財産はいつか尽きる運命にある。しかも今は貨幣すらデジタル化されて、出所すら僕には掴めない。
息つく間もなく飛び回る現代人は、石炭をかじり、原油を飲んで、有り余るエネルギーに小休止すら必要なくなったサイボーグそのものだ。
ベルトの上をひたすら走ったり、動かない自転車をひたすら漕いでいるのはきっとそのサイボーグ一味に違いない。
地球資源がとりあえず残っている現代社会はなんとも能天気でつくづく運が良いと言わざるを得ない。
ところでこんなところでこんな時間にこの文章を読み切ったあなたこそが、プロ野球選手のハートを掴む何万人に一人の幸運な張本人、あるいは千載一遇の好機をものにするトレーダー、そうだったら嬉しいな、と僕は秘かに願っております。