犬の系譜 其の五

 ジョジョは基本的には人間を見分ける術を心得ていて、警戒すべき人とそうでない人は自身で判断出来ていた。動物病院に入ると、何故かジョジョは腰が抜けたように地べたに伏せをしたまま、身動きしなくなってしまった。病院の先生を警戒しているのでもないし、過去にその病院でなにか痛い目に会った、というわけでもない。しかし、嫌な予感を察知しているだろうことは僕の目にも容易に見て取れた。自分自身がほとんど死ぬ寸前くらいに体調が悪い中で、この部屋で何か良からぬことが繰り広げられる、というのを肌で感じ取ったのだろうか。僕の態度や病院の先生の態度で何かを見抜くらしい。犬の直観力は驚異的というより他ない。僕らの感情や思惟は体臭にでもなって犬に勘付かれているのだろうか。そうでないとすれば一体どんな要素から状況を察知するのだろう。数千年の人犬共生の歴史は僕の想像を絶する深い深い繋がりを秘めている、という事実を如実に知らしめてくれた。

 ジョジョは診察台に載せられ、とりあえずリーシュマニア症の簡易検査をした。血液から反応を調べるものであるが、結果はすぐに判明し、予期したとおりジョジョは陽性だった。幸いなことにすぐに治療を開始すれば、元の通り元気を取り戻せるだろうとお医者さんは言ってくれた。感染症であるため基本的には薬物治療である。これからは毎日、決まった時間に決まった量の薬を投与しなければならない。ジョジョは犬として、当たり前に鼻が利く。投薬には上手い駆け引きが必要だろうことを想像しながら、僕は治療の方針を先生と確認し、処方箋を頂いてその足で薬局へと向かった。、病原虫駆除薬のMilteforanと、現在発症している病状を改善するための薬Zyloric、血中ヘモグロビンも大幅に減少しているため、血液のバランスを改善するサプリメントBloodderが処方された。あいにく薬局には病原虫駆除薬の在庫が無く、予約注文になった。帰宅してジャンニに事の詳細を伝えたところ、投薬の一切の面倒を見てくれるなら、という条件で治療に協力すると言い、薬剤はジャンニが仕入れると申し出てくれた。実際、毎日決まった時間に決まった量を投与するのはそれなりに面倒であるし、投薬の作業というのは看護する側の人間にとっても適性があるだろうことは自分でも感じるところで、僕かジャンニかのどちらかと言われたら、ジャンニではない方、となることは明白だったし、僕自身もこういった神経質な作業が殊のほか得意でもある。かくしてジョジョの延命ミッションが始まった。

 治療を始めた頃にはリーシュマニアの症状も進行していて、ジョジョの眼の周囲は脱毛症が進行していた。瞼もほとんど開くことが出来ず、具合は最悪だ、というのをジョジョは表情の全てで表現していた。

 錠剤を2種類と、肌に触れてはいけないというシロップを注入用の注射器できっちり計量して、缶詰めのドッグミールと混ぜて投与する作戦にした。難しいのは錠剤とシロップを同じ時間帯に投与できない点で、それがためにどうしても食事を二度に分ける必要があった。錠剤は固形なので、ドッグミールに混ぜると舌で選別してしまい、しっかりと選り分けられてしまった。粉々に砕いた場合は、絶対に食べ残しされないようにしなければならないのだが、きっと風味が変わるのだろう、錠剤を粉々にした場合、ジョジョはドッグミールを完食してくれない。匂いを感づかせないためには、しらばっくれて丸飲みさせるのが最も確実である。そういうわけで二度の食事の始めは早朝で、犬用のウインナーをサイコロ状に切り、その中に割った錠剤を隠し入れての丸飲み作戦にした。あくまでもウインナーの量は極力少な目である。シロップ入りのお昼ご飯を完食させるためには、昼どきに空腹になっていなければならないからだ。シロップを注入器から直接ジョジョの口に噴射して押し込むことも試してはみたが、これはただジョジョが苦しそうだったし、シロップを吐き出させずに100%飲み込ませることを毎回成功させるのは容易ではないので諦めた。家主のジャンニには僕が与える食事以外は一切の食べ物をジョジョに与えないように念を押した。

 投薬を始めて二週間ほどでジョジョの症状には改善が見え始めた。目の周囲にあった脱毛症は目立たなくなり、瞼も開くようになっていた。相変わらず日中は寝て過ごしているが、一日二度の食事を摂りにしっかり僕の家を訪ねてくれるようにもなった。朝は玄関の前でウインナーを待ち構えている。ひと月も経つと、ジョジョは近所に散歩に出掛けられるようにまで回復した。ジョジョの本来の日課であるパトロールを再開したのだ。夜中の野生動物への警戒活動も復活した。お医者さんの言った通り、ジョジョは命を取り留めて順調に回復していた。月に一度は病院で血液検査をしたが、下がりきっていた血中のヘモグロビン量はゆっくりと戻ってはいたものの、正常なレヴェルにまで戻るのはさらに数ヶ月が必要とのことだった。これはしばらく遠出は無理だな、と内心思った。

 ひと月半が経過した頃には、ジョジョもだいぶ回復していた。かなり動き回れるようになったので、日中の活動量は増え、お腹も空くようになったのか、お昼ご飯が待ちきれず、どこか別のところでご馳走にあやかろうと目論んでか、時折、どこかへ出かけるようになってしまった。

 リーシュマニア症は状況次第で犬から人に感染し、場合によっては死に至る感染症のため、検査を担当した動物病院は保健所への報告義務があり、感染した犬は飼い主が保健所に届け出て、病原虫が検出されなくなるまでの期間、外に連れ出してはならないという決まりがある。それに違反すると飼い主はペナルティとして罰金が科せられるのだが、動物病院のお医者さんはジョジョの感染を保健所に報告しなかった。ジョジョ自身が保健所に未登記だったからである。イタリアでは全ての飼い犬に認証チップの手術が義務付けられていて、首周りの皮膚の下に小さなマイクロチップを挿入しなければならないのだが、ジョジョにはそれが無い。週末のマルシェに来る人のあいだではそこそこ知られていた犬だが、役所では登記上、存在していない犬だったため、お医者さんはリーシュマニア感染を未報告で済ませていたのだ。僕の看護治療を信頼しての判断だった、ということもあるかも知れない。そうなると僕が責任をもってジョジョを管理していなければならないのだが、産まれてこの方、すっかり放し飼いで育ったジョジョは、門を閉めて囲われたり、紐に繋いでしまうと、パトロールだけはどうぞ取り上げないでくんなんし、と不満を顕わにし、囲われた状態が長く続くようなら発狂しだす始末である。致し方なく繋ぐことはしなかったが、ジョジョが街へ出かけることで別の犬に伝染させることがないか心配だった。