犬の系譜 其の四
Cassinoの夏はアフリカかと思うくらいに暑い。僕の中でCassinoは既にアフリカ北部である。水が豊富なCassinoのあちこちに流れる川で、ジョジョは夏の間ほとんど毎日水浴びをする。残念なことに、ジャンニのアパートの周辺は郊外だけあって、Cassinoの中心街と工業地帯のちょうど中間地にあたる。アパート周辺を流れる川は既に工場からの排水で汚染されいたり、温水が流れ出るところではその周辺に雑多な動植物が繁殖し易く、自然と栄養過多になり水質は悪いことが多い。魚もちらほら見かけたが釣りをする人は皆無だった。ジョジョはそんな川でもお構いなしに水浴びした。気候変動の影響か、とにかく中南部イタリアの夏の暑さは厳しい。毛むくじゃらのジョジョにとってはほとんど地獄の沙汰だったろう。
僕はジョジョのポートレイト写真を撮るのが好きだった。暇を見付けては庭でのんびり過ごしているジョジョを写真に撮っていた。ジョジョは自分がただ無意味に撮影されていることを自覚していて、ほとんどカメラからは眼を背けるので、こちらはカメラ目線になる一瞬を逃さないようにピント合わせとシャッタータイミングの調整にかなり必死に取り組んだ。あるときからジョジョの頭に白い粉が付いているのを見るようになった。夏の猛暑の時期、ジョジョは庭の水道のすぐ脇の地中に埋設されている古い土管の中で過ごすこともあって、そこは確かにひんやりと涼しいようなのだが、家主のジャンニはそこにありとあらゆる汚水を流していたので、僕はジョジョの頭に付いていた白い粉の正体はきっとジャンニが土管に流した漆喰の余りか、ペンキの類だろうと考えていた。だがしかし、ひと月経ってもジョジョの頭の白い粉は相変わらず残っていて、不思議に思った僕はじっくりとジョジョの頭を観察したところ、どうやら白い粉の正体はジョジョの頭皮そのものであることが分かった。つまりフケがたまっていたのである。しかも以前より粉は大粒になっていて、頭皮がほとんど丸ごと剥がれ落ちているような状態になっており、どうみても健康的ではない皮膚炎のようなありさまだった。恐らく土管の中の衛生状態が悪かったのだろうと察する。家主のジャンニは犬の管理に関して、餌やり以外にはほとんど全く何もしないし、恐らく気にもかけていない。皮膚炎があったとて、フケが出る程度である。ジャンニがジョジョを病院に連れて行くなどということはあり得ないが、一応、ジョジョの健康状態を把握してもらうために、僕はそれとなくジャンニにジョジョの皮膚炎らしき症状を伝えた。もちろん、何も処置されなかったが。
更にひと月ほどが経過して、もう夏も終わり、気候は秋を迎えていた。ジョジョは覇気が無くなり、土曜日のマルシェにも出掛けなくなった。日中はほとんど庭で寝て過ごし、家の周辺を行き来する人や自動車にも無関心で、とにかくぐったり、一日中寝て過ごすようになった。秋の日向ぼっこが気持ち良いのか、あるいは歳のせいで恋犬探しも落ち着いたのか、などと考えていたが、とにかく表情に覇気が無いのははっきりと見て取れた。
更にもうひと月ほど経ったある日、ジョジョは前脚をびっこを引くようにぴょこぴょこと、なにやら痛そうにして歩いていた。放し飼いだからもしかしたら自動車に前脚を轢かれたのかも知れないと思い、骨や筋肉に異常はないかと触診したが、素人ながらも骨には特に異常は見られず、筋肉を痛めたような様子でもなかった。関節の痛みなら、交通事故ではなく何か別の原因があるかも知れない。犬の病気に詳しいわけではないが、それでも僕は何かしらの病気の可能性を疑った。このところの数か月間、ほとんど庭で寝ているので足の爪も見て判るくらいに伸びていて、それ自体でもなんだか歩きづらいのではないかと思えるほどだった。ジャンニにはジョジョの症状を伝えはしたが、もう老犬だと言って一切取り合わない。とにかくこのままでは良くないと考えた僕は、知人の動物病院のお医者さんを訪ねることにした。当時のジョジョの健康状態として、長く続く頭皮のフケ、元気の無さ、長く伸びた爪、びっこをひく前脚。僕はこれらの症状を説明し、医者はほとんど考えることなく即答した。「Probabilmente sia la Leishmaniosi」.
リーシュマニア症と言われるそうだが、日本ではほとんど耳にすることはないと思う。蚊よりもさらに小さいサシチョウバエに刺されることで感染する病気で、治療が遅れると死に至る感染症である。イタリアではおもに犬がこの感染症に罹るが、ほとんどの場合、暑い南部イタリアで見られる感染症であったらしい。しかし昨今では北部イタリアの飼い犬でも発見されるようになったという。人間でも免疫力が極端に低下しているような健康状態であれば、感染している飼い犬から伝染することもあるという。以前はこの感染症に罹った犬は多くの場合、助けることが出来なかったらしいのだが、昨今では病状の進行具合によっては、投薬治療によって病気の進行を食い止めて、延命できるようになった。僕は動物病院を出てすぐに家主のジャンニに電話をかけ、ジョジョの不調はリーシュマニア症の可能性があることを告げた。
帰宅してジョジョを探したが、いつも通り庭でぐったりと寝ている。改めてジョジョを良く眺め、僕は病気と確信した。ジャンニの帰宅を待って改めて医者に聴かされた話を伝えたが、もう老犬だから、と繰り返すばかりで相変わらず治療には気が向かないようだった。この病気に感染した犬はどのみち死に至る、という先入観もあるのだろう。日本では全く聞いたことの無い病名だったが、イタリアでは犬の罹る病気として良く知られている感染症なのだそうだ。週末に意気揚々とマルシェに出掛けるジョジョを知っているだけに、衰弱しきったジョジョを見るのは僕にとっても非常に辛く、治療以外の選択肢は在る筈もなかった。ジャンニはジョジョを老犬というが、未だ10歳である。僕が帰宅するといつも出迎えてくれるジョジョが、その頃には歩くのも億劫になっていて出迎えてもくれず、様子を見に行けば切なそうな顔を見せるだけで、表情も明らかに助けを求めているそれだった。
僕は動物病院に改めて連絡をして診察の予約を取り、後日、自分の車でジョジョを街の病院に連れて行った。2023年2月2日のことである。