犬の系譜 其の弐

 僕は大学を卒業して、確か半年後くらいだったか、群馬県勢多郡に引っ越した。新里村という里山の農村である。そこの村役場が管理していた賃貸物件を借り受け、自分のアトリエ兼住居とし、作家として制作活動を始めるためだった。

 その物件は僕が見付けたものではなく、大学時代の恩師が自身のアトリエとして新里村から借り受けていたものだった。当時、新里村は様々な分野の芸術家に、村が管理する物件を優先的に貸し出して村おこしをするという、芸術家村構想があったのだそうだ。300坪のコンクリートブロック平屋建て、元々は養蚕場として村が運営し、地元の有志農家がそこで蚕を飼育し、農協に繭を出荷していたのだが、1980年代の後半には国内養蚕業はめっきり衰退し、絹織物が盛んな桐生市の近所と言えども新里村の養蚕業はほぼ消滅、恩師がアトリエとして再利用するまでの十数年間ずっと空き家になっていた建物だった。建物の脇にはおよそ700坪の桑畑もそのまま残っていた。その物件を借りることになった恩師は、桑畑を開墾して、彫刻制作の傍ら、大学の教え子たちとつるんで家庭菜園も始めた。若い頃にイタリアローマで研鑽を積んでいた恩師は、そのアトリエをCampo Nuovoと名付けた。希望に満ちた夢のあるネーミングと心躍ったものだが、今にして思えば単純に新里のイタリア語訳である。Campo Nuovoのために新しく仕入れた中古の木工機械などを配置して、いよいよアトリエ始動という矢先、信じ難いことであったが恩師は自宅近くで交通事故に遭遇し、そのまま他界してしまった。今の僕自身よりも若くしてこの世を去ったのだった。意志半ばという言葉が悔しいほどに相応しい、誰にとっても悔やまれる事故だった。

 新里村の有難い御厚意によって、恩師の意志を引き継ぐべく、卒業生の有志数人でその建物をアトリエとしてそのまま利用できる運びとなった。ただし、新里村の奥地にあったこのアトリエは、都会で育った二十歳そこそこの若造らにはとても暮らしやすい環境とは言えず、結局は僕の一つ上の先輩卒業生と僕の二人で運用することになる。その先輩が、アトリエの近所を徘徊していた野良犬を餌付けてしまい、終いに飼う羽目になってしまった。先輩自身は飼うことを望んでいたのか、仕方なくそうしたのかは定かでない。僕自身はとても責任を負えないので飼うことには反対だったから、その犬に関しては一切関わらないという立場を固持していた。

 前脚の模様が薄茶色のブチで、太さといい長さといい色合いといい、おでんのちくわそっくりな前脚だったので、そのまま「ちくわ」と命名された。ちくわは雌だったが年齢までは分からなかった。どんな事情だったか全く覚えがないが、ちくわはしばらくの間、その先輩の知人宅に預けられて都会暮らしをした時期があって、どうやらそこでどこかの雄犬と交わったらしく、いつの間にやらちくわに子供が出来てしまった。ちくわが新里村に再び戻ってきたときにはツミレと名付けられた雄の仔犬と親子セットになっていた。ツミレの兄弟たちはそのまま知人宅で飼われたらしい。この仔犬も含めて僕は犬を飼うことに依然として賛成してはいなかったので、母子共々飼育は全て先輩が担っていた。犬を飼うととにかく外出することが憚られる。旅行なぞ以ての外だ。大学を卒業し、まともに就職もしなかった僕が、お金はもちろん、芸術家としての肩書すら無い状況で、たとえ犬と言えども家族を増やせる余裕など時間的にも精神的にもなかった。僕が飼育に賛成できなかったのは、その時点の自分に誰かを養う余裕などないと思っていたからなのだが、残念ながら30年経った今でも家族が増えていないことを考えると、家族とはもしかしたら自然と増えてしまうもので、余裕の有無によって選択して得るものではないのかも知れない、と今は自省する。必要あれば手隙の時に散歩へ連れ出すくらいのことはあったが、基本的にちくわとツミレのことには関わらなかった。

 僕と先輩の両方ともが仕事で長期間アトリエを留守にしなければならないようなとき、犬たちは先輩の知人に預けられるのが常だったが、ある時、数ヶ月かかりそうな仕事を請け負うにあたって、アトリエを二人揃って留守にしなければならず、いろいろな事情からちくわの預かり先を見つけることが出来なかった。先輩は止む無く、ちくわを保健所に連れていく決断をするに至った。他に手立てがなかったのだ。その頃はちょうど運悪く、何かしらの皮膚病も罹っていて体調の優れなかったちくわを、快く面倒見てくれる人が見つからなかったためである。僕も先輩も明るい将来を夢見て、とにかく仕事の経験値を増やすことに遮二無二なっていた。ちくわのために仕事を見送るという選択肢を僕らは持てなかった。

 数ヶ月の仕事が終わって僕らは再びアトリエに戻り、先輩は知人宅からツミレを呼び戻して、また共同生活を再開した。その頃には結婚して奥さんがいた先輩は夫婦で近場の市営住宅へと住まいを移した。そこでは犬は飼えなかったために、ツミレはCampo Nuovoの玄関先に繋がれっ放しの生活を余儀なくされた。

 市営住宅の家賃、家族計画、将来の暮らしを考えてのことだろう、ほどなくして先輩は会社勤めになった。それから先は土日にしかアトリエに顔を出せなくなり、次第に週末に顔を出す回数も減り、先輩がアトリエで作業することはほとんど無くなっていった。僕自身もアトリエに缶詰めになることはほとんど無く、大抵は東京の実家と新里村のアトリエを定期的に往復していた。僕がCampo Nuovoに居ないとき、週末以外の平日は、夕方遅くに先輩がツミレに食事を与えるために短時間アトリエに寄るだけで、ツミレはほとんど丸一日、鎖で繋がれたまま、誰もいないアトリエの玄関先で過ごす羽目になった。見方によってはそれだけで既に虐待みたいなものだったかも知れないが、さらに悪かったのは、寂しさのあまりツミレが一日中泣き喚いていたことだった。隣近所、と言っても200メートルほど離れてるお隣さんにとって、これがどうにも我慢ならなかったようで、ツミレの泣き声がひどいときには水道の水をホースで直にツミレに浴びせかけてツミレを黙らせていたらしい。そのことに僕が気付いたのは、ツミレがホースを見ると途端に逃げ出すようになったからである。あるとき、お隣さんにそれとなく、僕らが留守の時のツミレの様子を尋ねたら、ツミレが泣き喚いて騒がしいときは降参するまでツミレの頭めがけてホースで水を浴びせ掛けてやるんだ、と聞かされた。ツミレにしてみれば一日中鎖で繋がれたままの生活など、動物として到底受け入れられるものではなく、精神的にも肉体的にもとても辛かっただろうことは容易に想像がつく。閑散とした農村で、朝から晩まで泣き喚く犬の声を聞かされ、平穏である筈の毎日を害されるご近所さんの日常も、またそれはそれで受け入れ難い。

 ただただ辛い日々を幾日も過ごしていたのはツミレであった。

 作品制作の時間が少しづつ増えていった僕は、段々と東京よりも新里村のアトリエで過ごす時間が多くなり、ツミレはいつしか僕がほとんど面倒を見るようになった。

 躾に関してはほとんど何も仕込まれていなかったツミレだが、広い伸び伸びとした里山の環境では、散歩の時に首輪から紐を外しても都会暮らしのポケのように逃走することはなかった。ただし周囲は山に囲まれていて野生動物もそれなりに多かったので、雉や野ウサギなんかの気配がすると途端に森の中に一目散に駆け入って、なかなか戻って来なかったりもした。ヤマカガシやモグラなどは徹底的に追い込んで上手に仕留めていた。誰に教わったわけでもないのに狩りをする姿はそれなりに様になっているのだから、生命というのは不思議なものである。

 冬のある日、僕はアトリエに籠って作業をしていた。毎朝、ツミレとの短い散歩の後に僕は朝食を摂り、お昼まで作業に没頭する。昼食後にまた作業を再開し、夕方、あまり気温が下がり過ぎないうちに、気晴らしも兼ねてツミレの散歩に出掛けるのが僕の日課だった。その日も日が暮れ始める頃合いにツミレを連れて散歩に出掛けた。アトリエの周囲は見渡す限りの畑である。村役場から建物と一緒に借り受けた我々の畑から先は、近隣のお百姓さん方の畑が4件ほど道沿いに長く奥へと続いてる。アトリエの建物とこれらの長く続く畑は、周辺の田んぼからは一段高く、3メートルほど高台になっていた。なので畑の南端まで行くと、日の出の太陽が東側に、正面に広がる遠景の街を通り越して、山あいに沈む夕陽が西側に綺麗に望める場所であった。畑の横を通る狭いアスファルトの農道を僕とツミレはゆっくりと歩いていたが、ふと、ツミレは立ち止まり、何やら耳を澄まして前方の草むらを凝視した。こういう時、大概は何かしら小動物の気配を感じているのである。獲物の存在を確信するとツミレは狩猟態勢に入る。僕はツミレの首輪に繋がれた紐を地面にそっと落とす。ツミレはしばらく身動きせずにじっと耳をそばだてる。そして突然出撃して草むらに飛び込む。最初の一撃で仕留められない場合は、逃げられてしまったか、もしくはツミレの勘違いで何もいない場合である。その日はほぼ最初の一撃で獲物の抑え込みに成功したようで、しばらくごそごそと草の中に首を突っ込んでから、細長い蛇を口にくわえてアスファルトの道に戻ってきた。僕と眼を合わせようとはしないが如何にも誇らしげである。鼻高々とはまさにこのツミレのことで、留めを指すために蛇を3度4度と地面に叩きつける。蛇はもうぐんなりして身動きしない。ツミレはなんとも得意げだ。「君はなんで蛇捕まえないの?もしかして狩りできないの??」と僕に言っている。僕がまだ小さかった頃、お気に入りの玩具のなかでも特にエース級のおもちゃがあるとき、出掛ける際には必ずどこにでもそのエースを持ち歩いたものだった。移動先に見せびらかす誰かが居ようが居まいが、到着すればそそくさとそのおもちゃを取り出しては自分の発明した遊び方を誰に見せるでもなく、それでいてこれ見よがしに披露したものだ。ツミレは今、同じことを僕にしてくれている。アスファルトの道の先には橙に染まった空に夕陽が沈みかけている。日本海からの湿った風は赤城山の向こう側で雪となり、新里に届くころには冷たいからっ風となって、山の尾根を走る送電線をひゅるひゅる鳴かせている。新里の冬は冷たい風に乾いていて、寒く、送電線以外はとても静かで、時折、雉がケンケンと鳴く程度だ。ツミレはこの夕陽に何か特別な感慨を受けるのだろうか。誰に習ったでもなくツミレは狩りを上手にこなす。本能の成せる技だ。僕がこの夕陽に穏やかさと少しの寂しさを感じるのは、一体何のお知らせだろう。本能が僕に何かを要求してのことだろうか。その日の夕食後、就寝前に外へ出てみると、新月で辺りは暗かったが、満天の星空だった。街明かりがほとんど届かない場所なので、満月の夜などそれはそれは明るく、幻想的な群青の世界が生まれる。新月は新月で無数の星がきらきらと瞬き、少々の根気さえあれば毎晩一つ二つは願い事が出来るほどの澄み渡った夜空を仰げる。黄昏時に見た夕陽に、僕は一体どんな返事が出来るか、それが彫刻制作のテーマのようにも思えた。

 1998年以降、年に一度は最低でも3ヵ月間、僕はイタリアに出掛けていた。僕がツミレの面倒を見るようになってからは、長期の留守の際はアトリエの近所の知り合いのお宅で預かってもらっていたのだが、その御夫婦が本当に親切にして下さり、ツミレを安心して預けていくことが出来たのは心底有難かった。いつ頃であったか記憶は定かでないが、先輩も市営住宅から戸建て住宅に移り住み、それを機に先輩が再び飼い主としてツミレを連れて他県へ引っ越していった。僕とツミレの付き合いが何年くらいだったかはっきりとは覚えていないが、精神的にはいろいろと辛い思いをさせてしまったこともあって、母犬のちくわと共に、今でもなんだか申し訳なく思う。ツミレは先輩に連れられて住宅街に移住したが、2年程後にマラリアに感染して亡くなったと聞かされた。

 2011年3月11日の東日本大震災で東北地方は信じられないような災害を被った。福島県においては原子力発電所の爆発もあって、今も立ち入り制限のある帰還困難区域があり、第一次産業への風評も未だ無くならない。

 新里村は地震による大きな被害はなかったものの、Campo Nuovoは築年数のかなり経ったとても古い構造物だったので、コンクリートブロックの壁や、鉄筋コンクリート製の躯体には看過できない割れが生じていた。地震後に一斉に執り行われた県の調査で、Campo Nuovoの建物はその後に想定される余震には耐えられない危険な建物として、解体物件に認定されてしまった。新里町役場からはできるだけ早い時期の立ち退きを勧告され、1997年に始まった僕の里山生活は2011年をもって突如、満期を迎えた。

 この里山生活では農作業の醍醐味を肌で感じることが出来た。2010年度はおよそ9俵のお米も収穫した。種籾の選別から苗起こし、田植えまで全て手作業でおよそ一反半の田んぼでの稲づくりだった。もしも立ち退き勧告が無かったとしたら、僕はもっともっと稲づくりに熱中していたに違いない。彫刻制作と農作業の両立を夢見てはいたが、稲づくりの忙しさを考えると、両立というのは言葉で云うほど単純なものではなかっただろう。稲づくりは少なくとも3月から11月半ばまでは実働がある。なんだかんだと気持ちの上では拘束されっ放しである。手作業で一反半の稲づくりの全てを貫徹するとなると、とても片手間でやり過ごせる仕事ではなかった。自分から農作業の環境をわざわざ諦める決断はできなかっただろうことを考えると、強制的な退居を命ぜられたことで、元々本業の筈であった彫刻制作に再び集中する機会を得た、とも云える。その時点では本当に実現できる見込みがどの程度だったのか分からないが、新里の次に居住する移転先として、僕はイタリアを考えていた。

 東京でアトリエを探し、彫刻家として一からスタートするよりも、イタリアで仕事ができる労働許可証をイタリア政府から入手し、彫刻家として居住権を得て、アーティストとしてイタリアで活動する方が自分にとっては相応しいと考えたからだ。僕の作風は日本国内では見向きもされなかったし、プレゼンテーションが苦手な僕は、制作に費やす以上の努力を宣伝に費やすことはなかった。営業が駄目なのである。一方でイタリアでは、何故だか理由は定かでないが、とにかくも作品の売却や制作依頼を受注するチャンスは定期的に巡ってきた。一体何が日本と違うのか正直分からないのだが、いずれにせよ彫刻家として活動するにあたり、日本と僕の作品は相性があまり良くなかったようだった。

 新里村のアトリエは、恩師が自宅に併設していた作業場では大きな彫刻が作れないという理由で、元々は恩師が自ら物件を探して、新里村で発足させた経緯がある。だがしかし、その本人は自身の作品を一つも完成させることなく、志半ばで他界してしまった。そのアトリエを受け継ぐにあたり、僕はこのアトリエ内で出来得る最大級のサイズの彫刻をいつの日か手掛ける、という秘かな目標を持っていた。恩師がやりたかったことは自宅併設の作業場では作り得なかった大きな作品の制作だったからである。鹿島建設が主催する彫刻コンクールに応募したところ、運良く僕の作品案が入賞し、高さ2メートル、幅が2.4メートルを超えるそれなりに大きい作品を実制作する機会を得た。アトリエで作品を無事に完成させ、いざ赤坂にある鹿島建設社屋のロビーへと搬送する日、アトリエの裏手の4枚扉の全てをサッシから取り外し、出入り口を全開にしてクレーンを使いながら搬出した。作品の価値はさておいて、その時点では少なくともサイズにおいて、恩師の無念の一端を晴らせたように思えた。その作品Cosmobeatは現在、新潟大学統合脳機能研究センターのロビーに設置されている。