Statement

 美術作品の価値はそもそも、その存在自体にある。プロダクトデザインの製品のように、そのものに具体的な役割や機能があって、そこに価値を見出しているわけではない。なので、存在そのものに価値を見出せないのなら、少なくとも自分にとってその作品の存在は本質的な意味を持たない。兎角、世の中は、存在にそのものの意味を見つけたがり、愛着も興味も湧かないものは“意味が無い“存在として扱われる。

 美術作品はときとしてマネーローンダリングの媒体として役割を担う。その場合には作品に役割が生ずる。デザイン製品のように、役割や機能があるのならその機能が価値となる。美術作品をローンダリングの媒体とする場合、機能はつまり作品の時価である。

 金銭的な価値が時間と共に目減りしないことが重要であるが、その増減は誰も正確に予想できないし、投資とは元々そういう前提で行なわれるものである。短期的に見て価格が上がるようであれば、その作品を手に入れて、しばらくして転売するという行為に儲けが付帯するので、そこで無事に機能が働く。価格が確実に上がりそうなものを見分けられるのなら、あなたは美術コレクターになる素養がある。

 一方で、それらの作品を制作する作り手の芸術家にとって、ローンダリングの媒体づくりが制作のモチベーションであるかと問う場合、それは否であろう、例外を除き。

 もしも美術作品に、デザイン製品にあるような具体的機能や役割に取って代わる、何かしらの“意味”があるのならば、そしてその“意味”がたとえ個人的であれ自分にとって有用な場合には、その作品を入手することに意義が生ずるかも知れない。その作品と共にあることに価値を見出す、ということだ。

 もしもこのように、その存在に価値を見出すことが、たとえ大多数の人間にとってではなくとも、ある限られた少数の人間にとって事実であるのなら、美術作品は取引が可能な商品となり得る。もちろん、そうだとしても美術作品の売買はそう簡単ではない。現に世の中ではたくさんの美術品の売買が執り行われているが、その流れに乗る作品は、世の中に存在する美術作品の総数と比べれば極々少数に限られてしまう。端的に言えば、買い手が要求する価値と、数多の美術作品がそれぞれに内包しているように感じられる価値との間に、埋めきれない隔たりがあるからだろうと考える。その隔たりをどうにかして埋めようという売り手側の戦略なのか、昨今、美術作品にはステイトメントなるものが付き物になった。売り手側というのは売買を担う画廊であり、画廊と協働する作家である。

 例えば音楽ならば、まずは演奏を聴く。生の演奏であれば演奏する音楽家たちの姿も観ることになる。歌のように歌詞があるものならば、その詩と音が調和を持って聴く人に何かを訴えるであろう。たとえ歌詞の無い音楽であっても、織り込まれた音の重なりと流れは、それ自体が聴く人に何かを語り掛けるか、働き掛ける筈である。音楽は多くの場合、言葉よりもダイレクトに感情が伝わることが多い。音楽そのものが言葉による説明にあらず、感覚の直接の移植だからなのだろうか。一方で言語表現はその性質上、説明することでしか感情を表現できないという弱点がある。その説明を受け取る側は、必ずしも発信する側と全く同じ解釈をするとは限らない。言語表現は必ず大なり小なりの誤解を内包するものだが、それも含めてのコミュニケーションが会話であり、音楽で感ずるような直接性は持たず、常に自己の憶測と照らし合わせた認識に因る。

 音楽は直接的であるものの、根本的に曖昧でもある。というのも言葉のように要素に意味が定義されていないからである。会話のような双方向性はきっと演奏する音楽家同士の間でのみで執り行われ、鑑賞者との双方向性は極めて限定的である。

 メロディはそこに具体的な意味を添えるものではないが、情緒を伝えるという機能がある。音楽は素晴らしい発明であり、美しい行為である。

 美術作品に添えられるステイトメントは、発信者側の販売戦略であるのだろうが、この頃は受け手側の大きな興味にもなった。鑑賞者やコレクターは、作品の作り手が何を想ってそれを手掛けたのか、ということを作り手の声として聞きたいらしい。逆説的には、音楽のように直接的に情緒に語り掛けてはくれないので、ならばいっそ言葉で働きかけて欲しいという要請と言えなくもない。美術作品の受け手は“正しく”情緒的に反応するために正規の解説を受け、作品と正しく対峙し、自分にとって望まれる役割が有るのか無いのか、相応しい価値が有るのか無いのかを判断するようだ。

 音楽が演奏する人間に高揚感をもたらし、聴く人に豊かさをもたらすのはきっと事実である。美術もまた然りで、制作する人間に充実感を与え、観る人に新しい視点を与える。価値ある作品は社会がそれを認知して、その保護に努める。偉大な絵画や彫刻は然るべき場所で厳重に保存され、あるいは展示される。制作することの悦びを知った者は作家を目指すかも知れないが、社会的生活が保障されるかと問われればほとんど場合、それはままならず、まともな暮らしは保証されないと言って良い。そうだとしても現代社会では数え切れない量の美術作品が制作され続けている。裏を返せば数え切れない数の作家がまともな暮らしせずに制作に励み勤めている。現代社会の豊かさは絶頂期を迎えたと言って良い。

 話は変わるが、我々が暮らす現代では太陽から日々受け取るエネルギーの十万倍のカロリーを消費しているそうだ。太陽光は朝から晩まで地球にエネルギーを届けている。熱をもたらすし、植物はその光で光合成をして酸素を作ってくれる。地上のほとんどあらゆる場所に散らばった我々人間は、太陽光がもたらす熱の十万倍の熱量を毎日消費している。そのカロリー源は化石燃料がほとんどである。この燃料は使い続けているうちにいつか枯渇する物質である。いつかは正確にわからない。太陽がひとつだけではなくて、十万個になったとしたら暑つ過ぎて生物の暮らしは崩壊するだろう。化石燃料は高濃度に凝縮された太陽エネルギーである。それを生成したのは膨大な時間による圧縮であり、我々がこれを好んで使いたがるのは、エネルギーそのものを持ち運びできる状態に物質化されているからである。十万個の太陽が太陽光を放たずに、コンパクトにまとめてリチウムイオン電池の中にあらかじめエネルギーを封入して送ってくれたならば、我々は喜んでそれを使うだろうし、人類の社会生活における持続性は増すだろう。しかし、太陽は自身の核融合から発するエネルギーをただただ放散するだけである。そのエネルギーを効率良く容器に収める方法は、現代においても未だ見つかっていない。太陽光パネルは実際のところ、現状では太陽エネルギーの数%分ほどしかバッテリーに貯蔵できない。エネルギー量の収支として換算した場合である。

 誰にとっても明白なことであるが、現代社会の生活は化石燃料の凝縮されたエネルギーに依存している。動物や植物自身は食物連鎖のサイクルの中で、基本的に太陽光エネルギーだけで生きていける。植物は太陽光で光合成し、自身の新陳代謝をまかなう。食物連鎖によって最終的には肉食動物も、間接的に太陽エネルギーだけで新陳代謝をして寿命を全うできる。しかし太陽光パネルは今のところ、パネル破損の修理や老朽化したものの据え替えを太陽光エネルギーからではまかなえない。つまり人間がパネルを作り直さなければならない。持続可能性とは思っているほど単純ではないのである。

 生活がままならないとは言いつつも、数え切れないほどの美術作家が現代社会で制作を続けていられるのは、社会が豊かだからである。人間が創作する悦びを内に秘めているのは確かな事実であって、人間である限り、創作することへの願望は永遠に消えることはないだろう。では作られたものはどうであろうか。芸術活動あるいは美術作品という結果が人間にとって、ときとして必要とされるのであるのならば、たとえ生活がままならなくとも結果づくりに邁進してしまうのは致し方ない。理屈でどうにかなるものではないと思う。ただし、そんな贅沢が出来るのもエネルギーが潤沢にある現代社会においてである。あと50年もすれば結果づくりに勤しむこと自体が特権的になるかも知れない。たとえ人々に対して必要とされる結果を残せないとしても、芸術活動における結果づくりの探求はそれだけで特権的のものになり得る、ということである。芸術活動の多くは既に膨大なエネルギー消費に依存していて、それ無しではほとんどの場合、制作も売買も成立しなくなっているから。

 ようやく話を戻してステイトメントである。作品を発信する側は、数多の作品からの個別性、有意あるいは優位性を訴えるのだし、芸術を鑑賞する側は何か信じるに足るものを欲している。そしてどのみち人間は、意義の有る無しに関わらず、ただ所有することに対する渇望を抱えながら生きてもいる。需要と供給の相互補完は必ずしも意義通りに成立するものだけではない。どんなものであれ、その世界で頂点が在るのであれば、頂点の存在はその下の重厚な土台、膨大な堆積物を必要とする。堆積物の量が膨大であればあるほど、頂上は羨望の眼差しで仰ぎ見られることになる。将来の社会に何か一つでも人間の、極めて優れた創作活動の結果を残したいと思うのならば、並行して膨大な堆積物をも拵えなければならない。数え切れないほどの芸術作品が、有益無益、売れる売れないの如何に関わらず、とにかくも制作され続けることの価値は、頂点を支え、頂点をより高くして羨望させることにあると言えなくもない。今更言及する必要もないが、堆積物をとにかく生産し続けるという事実は、ステイトメントよりも真実に肉薄する切実な要素である。

 うだつの上がらない自称作家は、図々しくも今日を生きるための言い訳に、なにか説得力のあるステイトメントを、と暇を弄ぶのだ。