意味するところは

 彫刻を作っていると定期的に問われることがある。この作品の意味するところは?というのがそれだ。

 多くの現代アート作品が深い意味と意図をもって制作されているのは周知の事実だし、一方ではまた別の、少なくない芸術作品においては、作品そのものの意図を多くは語らず、鑑賞者それぞれにとっての意味を見出してもらうよう、作品存在そのもので鑑賞者に問いかけようとするものもある。作品の“意味”を定期的に問われるのは、何かしら意図を持って僕が制作に挑んだのだと思われるからに相違ない。人間の行動には意味がある、のかどうかは知らないが、そう考えたいのが人間である。

 美術作品の在り方に唯一の正解があるわけではないし、人それぞれ表現の仕方は千差万別である。右に倣う必要はない。そういう云わば無条件の中にあって、多くの人に共感されるものと、そうでないもの、という違いは確かにある。共感されるものが鑑賞者にとっていつも有益であるか、全く共感できないものは鑑賞者にとって悉く無益なものか、というのも実際のところは良く分からない。何故と言うに現代社会で確実に信用できるものなどほとんど幻想に近いからである。世の中の流行だって、社会のルールだって、主流なインフラの技術だって、自分自身の好きなものへの執着だって、何事も留まることはない。流動的であり続ける。ドローンで視る世界の広がりは研究室内の顕微鏡では決して得られないが、電子顕微鏡で視る微細な世界を上空から確認するのもまた不可能だ。マクロとミクロの視点を時間のスパンに置き換えて考えるなら、ここ一週間の期間に限って評価を与えるのと、今後一年間というスパンで評価を求めるのと、80年間を一つの区切りとして俯瞰して評価するのとでは、何も彼もが変わってくる。我々人間は何も読まずに、何も書かずに、ただ受動的に日々を過ごすならば、大抵の場合は今ここ、現時点が最も重要になりやすい。つまり今、直接、感覚的に訴えるものに反応し対応していく、ということだ。10年計画で事を成そうと思うのならば余程、自己が鍛錬されていなければならないだろう。直接的な感覚刺激に対してある程度は眼を瞑って遣り過ごさなければならないからだ。手掛けた作品がいつどこで誰に有益になるかは、誰にもわからない。飛躍した考えが許されるのなら、作品の本質が問われるのはその意味を離れたところからだとも言えなくはない。

 命を授かって生まれて来るあらゆるものは、そのうちいつか果てていく。植物の一生も、動物のそれも、我々人間の人生も、産まれたから与えられたのであって、しかしこの賜物を与えられた全てのものにとって、それは永遠ではない。世界は大昔から存在するが、我々の眼前に広がるものは期間限定の世界である。最終的にはどのみち消え失せる存在である我々にとって、意味の有無や損得の勘定はどこまで追求する必要があるのか、じっくり問うてみるのも悪くないが、さりとて明確な答えが出る問題でもない。何故なら最後の瞬間は不意に訪れるので、スケジュールを組めるように我々は生まれてこなかったから。ほとんど誰もが死なないつもりで生きている。いずれ所有しているもの全てを捨てなければならないが、その瞬間がいつ訪れるのか誰も知らされない。自らの意思でその瞬間を決定することも出来なくはないが、そればかりは推奨しない。墓場まで持っていくつもりはなくとも、大抵のものは最後の瞬間まで持ち続けることになる。

 限りある生命の時間だとしても、それを能う限り有意義に過ごそうと努力するのは人生の醍醐味であるが、目的と現実とが乖離してしまうことも少なくない。

 所有する楽しみ、消費する悦び、作ることへの願望、知ることへの憧れ、これらは大抵の場合、努力で増やしていくことが出来るものだが、より多く、より大きく、となると努力以上に才能や生まれながらの境遇がものを言い始める。生まれたときに持たされた手札の違いはその後の歩みに影響する。万人には到達できない領域は確かに存在するし、ほとんどの人間は得られるもの、経験できるものに到達限界がある。それを納得して甘受するのも、限界を破ろうと努力し挑むのも個人の自由である。

 意味は、付けたいと望むなら付けられるものだ。それで物事がより味わい深くなると考えるならば、好きに味付けするのが良い。全てお膳立てして提供するのもサービスにおける戦略の内だ。味付けの濃いものに慣れてしまうと薄味のものは食べた気がしない、ということになりそうだが、身体に摂り込んだ後に、本当に必要とされるもの、あるいは思いも寄らない悪さをするもの、健やかに生きたいならばそのあたりのことも気を付けた方が良いかも知れない。特に昨今は色々なものの塩梅が悪い。あちこちで釣り合いが崩れているように見える。水を沢山飲んで代謝を促すことがもてはやされているが、言い換えれば現代社会はそれほど毒に溢れているのだ。そもそも味が濃すぎて飲まずにはいられないだけかも知れない。薄味ならば喉もそれほど乾かない。ただの水とは言え、上から下へと筒抜けに排泄されるわけではないのだけれど、水を沢山飲むことが諸手を挙げて推奨されること自体、人の暮らしは厄介である。

 とにかくも、身体に摂り入れてしまったあとにはそれを無かったことには出来ない。それを糧に身体は新陳代謝して、自分自身を少しづつ入れ替える。

 都市の暮らしでは街に出ると日々、何十人何百人という見知らぬ人とすれ違う。世界人口が80億人を突破した今日、ただすれ違うことが出来ただけでも縁があったと言えなくもない。ましてや人と出逢って知り合い、その人を知ってしまった後、それ以前にはもはや戻ることが出来ないような出会いを我々は人生のうちでどれほど得られるだろうか。それはモノであっても同様で、自身の生活や価値観を良くも悪しくもそれを得る以前とは異質のものにしてしまう存在と、人生のうちでどれだけ巡り合えるだろうか。

 単に所有欲を満たしたとか、消費がもたらす一時の快楽ということに言及しているのではない。

 作り手として、作品そのものに意味を付加すること以上に、それが誰かの手に渡ったときに、その人にとって何かしらの意味が生まれること。それを願って僕は制作する。正直、それ以上に意味らしい意味を見出せそうにない。

 問題は、誰かの手に渡らせること、さらにはその際に対価を得ようと企んでいること、その取引の困難さ、それに尽きる。