飽食時代
現代の先進国における社会生活は本当に豊かである。つくづくそう実感する。日々、自分があくせくしていることの目的は大概、生きる上で余剰なものばかりである。
スマートフォンがそもそも余剰であるが、そのスマートフォンが無くなると現代生活のルーティンが一瞬にして瓦解し、全く身動きが取れなくなる。スマートフォンが無くても我々は生活できるはずなのだが、実際に一日の生活のルーティンのなかにどれほどの事柄がこのデバイスを頼りにスケジューリングされているかを考えると、自分自身がモルモットのように感じられてくる。げっ歯類の哺乳動物はハツカネズミからヌートリアまで多種にわたるが、どれも繁殖力が強く、ほとんどの種が年月を経て世界中に拡散して生息している。人間も同様に世界に拡散したし、支配する者とされる者とが盲目的に生きるのもげっ歯類によく似ている。人間の場合は繁殖力が旺盛というよりも、支配力旺盛なのかも知れない。
支配力というのは実際問題それなりに個人差が大きい要素である。人間に広く備わっているのはむしろ願望としての支配欲の方で、実効的な支配力はまた別の才能かも知れない。
我々の支配欲は、あらゆるものに及ぶ。対人関係ではもちろんのこと、動物や気象のような自然相手であっても、どうにか掌握しようとあの手この手で相手の動きを探ろうとする。
善悪の問題ではなく、人間の生存戦略なのであって、これは性である。善悪の創造は別の意味での生存戦略だろうが、それは社会性に関わる要素と言える。支配欲はより原初的な部分で人類という種の生存戦略に関わる要素かも知れない。
現代の豊かさはそのほとんどをエネルギー消費によって実現している。しかしながら、我々が普段利用しているエネルギーの大半は化石燃料由来なので、いつかは枯渇し、その意味で現代社会の豊かさは有限であると周知されている。エネルギー資源は枯渇するが、豊かさは手放したくないと、代替エネルギーへの移行を模索しているのだが、実際、化石燃料の消費は今でも一向に減る気配はなく、代替エネルギーの存在が本当の意味で我々の消費エネルギーを代替するには至っていない。プラスアルファとして利用されているに過ぎないのが現状である。
将来のことはなかなか具体的に想像することはできないが、少なくとも我々が享受している豊かさはいずれ頭打ちになって、人類は産業革命以前の頃のような質素な生活を余儀なくされるのかも知れない。しかし産業革命以前と比べ、我々は比較にならないほど多く、そして価値ある知見を獲得した。産業革命以降から現代までの様々な経験と知識は、エネルギー消費を極めて限られてしまうであろう将来にも、きっと有効に活用されるに違いない。
それはそうである。しかし、現代社会はやはり行き過ぎている。
健やかに生きるために豊かさをある程度抑制する、ということは個人のレベルでは限定的に可能かもしれないが、人類社会全体を俯瞰すると、エネルギー消費に上限を設けるという動きは、残念ながら見られない。もしもCO2削減が急務なのであれば、中東の油田に蓋すれば良いのだろうが、油田開発は尚も進みこそすれ、蓋をして眠らせる、という選択は採られない。度し難いのも人間の性である。そういうわけで、人類はこの先も採掘可能な化石燃料は能う限り採り尽くし、それを利用し続けるだろう。それまでに発生するCO2がどれ程の量になって、地球環境は物理的にどんな変化を被るのか。それら膨大な量のCO2が再び地中に埋蔵されるようになるまでにはどれだけの歳月が必要なのか、可能な限り正確な調査をし、それを公開することはきっと有意義であろう。そしてほとんどの人をそれを知りたくない、あるいは信じたくないのでは、と想像する。
いずれにせよ、長い目で見れば現代の社会生活は終焉に向かっている。細かい内容は日々発展しているにも拘らず、である。例えば僕自身の人生は、化石燃料枯渇よりも先に、自分自身の寿命が先に尽きるのは眼に見えている。裏を返せば、僕は自分の人生を現代の社会生活に則ったまま生きていくことになる。これまでと同様にこれからものらりくらりである。化石燃料枯渇問題は突然にやって来るものではなく、徐々に、じわじわと変化がもたらされるのだろうと考える。燃料の高騰、気候変動の更なる悪化、住環境の変異。化石燃料の枯渇とエネルギー使用の制限は、カレンダーに従って新年度が始まるように唐突に起こるわけでは無い。社会生活は徐々に、恐らくはなかば強制的に改変されていくのだろう。我々を強制するのは自然の側からで、我々自身が自らを強制することは最後まで能わないと想像する。
我々には寿命がある。どうせ最後は死ぬのだからといって、ならば効率を優先して今すぐに死を選ぶ、ということをほとんどの人は好まないし、その選択もしない。極言すれば、効率は高ければよい、というものではなく、自分にとって馴染みやすいかどうか、という直感的な要素も実は大切である。高効率を優先するならば、我々の食事もドッグフードのようなバランスの取れた総合食を食べれば済むことであるが、世の中、ミシュランガイドに載るレストランがもてはやされるのはご存知の通りである。ちなみに僕個人は毎食自分で用意しているのだが、僕は自分のエサ作りを習得した。
豪邸に住みたい、という欲求も、効率重視で生活するのならばもっと違った環境を整えそうなものだが、世界中に存在する億万長者がミニマルな生活だけに満足しているわけではない事実から察して、効率というのは人間の素性を重視すればするほど胡散臭いものなのではないかと疑っている。
豊かさについて考察しようと思ったのは、現代の先進国の生活が異常なほどに飽食化しているからである。レストランに行けばとにかく手の込んだ調理法で、食材はより価値の高いもの、使われる食器はもちろん、店内の雰囲気も給仕のサービスも徹底的に贅を尽くして歓待する。裕福な階級において、こういった慣習は古代から引き継がれているものだが、現代の先進国ではその歓待を受ける権利を貨幣で購入できるようになっている。身分は問われなくなった。
レストランを出てしまえば、あとに残るのは食べてしまった食材だけである。残るというのは我々の貯えとして、という意味である。食材は身体に栄養を与え、エネルギーを供給し、身体中の細胞を作り直すための素材になる。
品質が見合っているのならば、ドッグフードのようなエサであっても、ミシュランガイドのレストランの食材でも、食べてしまえば後は同じことである。重要なのはその品質で、質悪なものを食べていては直に病を発するのがおちだが、なるべく良い食材を適切な方法で摂取していれば、寿命が来るまで健やかに生活できる可能性はきっと高い。
昨今の豊かさは食生活の価値にも影響を及ぼしている。摂取した後の身体への効果よりも、提供される時点でのプレゼンテーションがより重要である。料理の種類やその味付けが、食材のクオリティよりも明らかに重要視されている。つまりはエンターテインメントである。
ようやく本題に入れそうである。彫刻家である自分が昨今、ひしひしと感じていることの一つに、作品におけるプレゼンテーションの重要性がある。作品は適切な方法で効果的にプレゼンテーションされなければならない、と益々頑なに信じられ実践されるようになっている。それはきっと作られた作品を効率良く売却するために不可欠な要素であり、あるいはそもそもコレクターに購入させるという、穿った見方をすれば公認で詐欺を働くかのような行為に対して、正統性を付与するためにどうしても必要な手順なのかも知れない。その手段を練りに練って現代美術はここに至った、という感がある。芸術におけるほとんどあらゆる成果は効率の対極にあると言って過言ではないが、その成果、つまり作品を、マーケットの商品として必要とする立場の沢山の人や組織が、それにふさわしい戦略をもって展示、売却に奔走する。芸術の成果そのものに対しても戦略的見直しを迫るほどである。エンターテインメントを否定したり拒否したりするつもりは毛頭ないが、エンターテインメントから外れた芸術に出会うことが難しくなっているのは確かである。
自然からの搾取によって得られる豊かさを蓑にして、上昇志向は益々躍進し、上と下の格差は増大する一方だが、いつまでも右肩を上げていられるわけではない。今後百年もつのかどうか。残念ながら僕はその行く末を見届けることは能わないだろうが、環境適応能力の高い人類が、貧しさの中から一体どんなエンターテインメントを発明するのか、それはそれとしてとても興味深い。群馬の里山にアトリエを構えていた頃、偶然、畑の中から縄文時代に作られた翡翠の耳飾りを発見したことがあった。千年余前にその辺りに住んでいた誰かが、天国へ旅立つ前に僕に託してくれたのだ、と曲解すると、僕もやっぱり何かを作り続けたいと思った。