記憶の系統

 Ernst Haeckel- エルンスト・ヘッケルは19世紀後半から20世紀初頭に活躍した生物学者であり、哲学者である。どんな学者でも専門分野を突き詰めると、たとえ哲学者でなくとも哲学的な問題にぶつかることが間々あるようだが、人類史に名を刻んだ学者であるヘッケルも、自身の研究を掘り下げると共に、人間の心理においても造詣の深くした学者である。

 ヘッケルの言説は非難の対象にされることも少なくなかったが、僕にとって彼の提唱したRecapitulation theory: “反復説”は忘れた頃に頭をよぎる、示唆に富む命題である。

 芸術作品を判断する上で、僕自身がひとつの価値基準になるだろうと考える条件の一つに、作品の自立性、即ち個としての存在の確立、という見方がある。作品が作者の手を離れた瞬間、その時に作品が自ら呼吸を始めるかどうか、つまり命を宿すかどうか、というきわめて主観的で、理論学問からは逸脱した価値基準である。僕自身、美術作品とは結局のところ理論体系に収まりきるものではない、というのが大前提としてある。多くの評論家は逆にどうにかして自身の編み出す理論体系に収めたがるものだが、僕はそれを信じない。作品はいつでも自由であるというだけではなく、そうではなくて、頭の良い人間であっても人間自身を本当の意味で知り尽くすことはできない、という前置きから僕は作品制作を始めたいからである。つまり、創作という行為の源流を学問が解明する、ということを僕は信じていない。

 それは僕自身の拠り所でもある。

 ヘッケルの反復説、「個体発生は系統発生を繰り返す」という命題は、それが真実であるかどうかはさておき、自然の神秘を言語化した類稀な命題である。系統発生という言葉が凄い。ダーウィンが提唱した、適者生存に準拠する進化論を、全く別の見地から、現在に見る動物たちの生命史を説明しようとした、天才的な視座による徹底的な観察から生まれた言葉である。どんな植物でも動物でも、命を宿す限り、その系統の歴史をDNAの中に記憶として宿し、各々自身の個体発生の段階で、その系統における生命の歴史を網羅的に直接身体表現する、という見方である。端的には“生命史”と言えるが、現代では”Biohistory” と呼ばれる研究も広く知られ、日本語では生命誌という字が充てられている。

 繰り返すが、反復説が真実であるかどうかはさておき、個体の発生がその都度、系統発生を踏まえるのなら、命を宿したものはどんな存在であれ、身をもって生物の歴史をすでに自ら辿っている。生まれたものは皆、生物の歴史を背負っているのである。あなたは生まれたときに既に、あなた自身の意識が発生するずっと以前に、微かに繋がっている遠い祖先の記憶を自ら辿ってしまったのである。なんと神秘的な見解なのだろう。

 美術作品を手掛ける、という前提で僕自身は作品制作に従事している。僕にとって作品は即ち生命を宿すもの、という非科学的な前提を条件にしている以上、制作段階のいずれかの時点で生命の歴史、あるいはその系統の記憶を辿っていなければならない。命の宿った作品を作りたいと願うならば、制作過程において系統発生を踏まえなければならない、というのがヘッケルの反復説に愛着を寄せる僕にとって理想的な理念となる。しかしながら正直、わざわざ小難しい課題や条件を作品制作に付帯させるのは本意ではないし、はっきり言って作品に対する理論武装などは僕にとってどうでも良い。作っていて良い感じなのか、あるいは釈然としないのか、作品としていずれ自分の手から離れることを想定して、何かしらそぐわない状態というのは、経験を重ねれば勘付くものである。作品制作は理論との答え合わせから生まれるものではない。自分の設定した理論にそぐわしいかどうかなんて、実のところどうでも良い。そんなところから作品は生まれない、とさえ僕は秘かに思っている。

 さて、それではヘッケルの反復説にどう向き合えば良いだろう。結局、僕が思うに作品が踏まえなければならない系統発生とは、つまるところ製作者の記憶そのものに帰着するのではなかろうか、と想像している。僕自身が例えば夜の星空を眺めながら人類の歴史に想いを馳せるとき、太古の昔、星座の物語を語り聞かせる母親と、その物語の主人公たちに息を吹き込む子供らを空想する。その空想は人類が辿った創造の歴史として、僕の記憶に組み込まれる。それら物語が生まれた当時の真実と、僕の空想とが合致するかどうか、それは問題でない。星座の物語に僕自身が自分と分かち難い繋がりを感じない限り、その歴史は僕の記憶として定着できない。もしも個人の記憶が系統発生を辿ることが可能ならば、系統の記憶は、経験から再認識されて新たに輪郭を与えられる、眠っていた記憶なのではないか。その記憶とはすなわち人類における創造の系統なのかも知れない。美しいものを美しいと感じることの本質は、理論体系に頼るのではなく、人類が重ねて来たであろう経験の記憶を呼び覚まして、個人個人がそこに輪郭を与えられるかどうかなのではないか。繰り返すが、母子のやりとりの空想が当時の真実と呼応するかなど、実は問題でない。偉い歴史家でさえその判断は出来まい。太古の昔、母親の語る星座の物語に聴き入った子供らは、きっと存在したはずで、この子供らの空想世界はどれ一つとして同じではなかったろうけれども、そのどれもが正しく、不正解など存在しなかった。そして、数千年の後に僕が空想する世界も、その意味では不正解と言い切れない。

 ぼくが作品を制作する過程で、無意識のうちに作品としてそぐわない要素は削り、釈然としない部分は試行錯誤を経て、在るべき体を成すように何度でも刷新する。

 こういった無意識の判断は、経験を増すごとに鍛錬され、創造は一過性の性質をいよいよ強める。創造において、再現性の有無は本質的に問えなくなってしまう。この点においては同じ創造でも科学と芸術は違うらしい。

 無駄に話が長くなったが、主義や派で方々に枝別れてしまった体系の源流へと、知識によって遡ることがミッションなのではなく、それはそれで役に立つだろうが、やはり本質は、経験から輪郭を与えられる創造の記憶なのではないか。

 と、ここまで書いてきたが、やっぱり僕にとって芸術とは理論で構築されるものではない、というのをこの些末な考察で再確認するだけだった。ヘッケルの反復説は今も優れた命題だけれども、それが真実かどうか、というのは知る由も無いし、やっぱり人間の分際で解明できることではなさそうだ。もちろん世の中はあらゆる分野で人間の分際を超えようとする研究と努力が為されているし、素晴らしい成果や結果を生んでいるのだけれども、取り急ぎは7月の灼熱の都市生活をどうにかしたいこの頃である。