悔恨

 幼少の頃は四年に一度のオリンピックが大好きで、沢山の競技をテレビで観戦した。いつの頃からか、四年に一度の待ちに待ったイベント、という心躍る期待も徐々に薄れ、大学に通うようになってからは自宅でテレビを見ることすらも少なくなって、栄光のオリンピックはいつしか遠い存在となっていた。

 世界中には様々なスポーツ競技に自身を賭けて、日々鍛錬する人たちがいる。それぞれの選手の属する国や地域によって、世界の第一線で活躍する選手たちへの処遇も千差万別である。国を代表するレベルの競技者であれば、トレーニングそのものが彼らの生活手段にもなり、国は彼らに最善のサポートをする。金メダルを獲得しようものなら、膨大な報酬が国から贈与される場合もあるらしい。社会は個人個人が誰かの役に立つことで、翻って自身の生活を保障できる仕組みなっているはずだが、最前線で活躍するスポーツ選手は一般人の何かに役立っている、という暗黙の前提があるようだ。メダル獲得で国から報酬を得られる選手は、国家の役に立ったということなのだろう。良く言われるものに「勇気をもらった」というのがあるが、そう言われるのだからきっとそうなのだろう。勇気はコンビニやデパートに行ったところで手に入らないから、四年に一度、人はテレビ中継からそれを蓄えるのかも知れない。

 僕は大学を卒業とほぼ同時に、群馬県の里山に移住した。22歳の頃であるが、その時からテレビを持たない生活が続いている。今年で生誕半世紀なので、人生の半分以上はテレビの無い生活である。しかしながら携帯電話がパソコンと化した頃から、もはやテレビの無い生活、という豊かな暮らしは消えて無くなってしまった。スマートフォンは世にも恐ろしい戦略機器である。何の戦略かと聞かれるなら、それはもう言葉の綾というか、別段何でも良いと思う。とにかくも驚異であり、また脅威である。御多分に漏れず、僕もスマートフォンを所持しているので、有益無益を問わず、情報に溺れる生活をしている。それでもスマートフォンでオリンピック観戦はこれまでしてこなかった。思うに僕の暮らしは勇気を必要としないのかも知れない。

 オリンピックと言えば、特に我々日本人にとって注目度が高い競技として柔道がある。

 僕の世代は田村亮子さんが有名だった。実力としては現役時代ほとんど常に世界王者として活躍されていたが、ことオリンピックとなると何故か金メダルを逃す、という悲運に泣かされ続けた選手でもあった。

 今年、2024年はパリ五輪の年である。前回の東京で金メダルを獲得し、今回のパリでもそれが期待されている選手がいたそうだが、個人的にはスケートボードの堀米優斗選手の活躍は期待していた。今回の五輪の決勝でも驚異的なパフォーマンスを見せて、見事に二大会連続の金メダルを獲得したそうだ。とても難易度の高いトリックを滑らかにメイクするのが彼の真骨頂だが、ほとんどヴァーチャルと言えるような想像を絶する難易度のトリックを、自転車のペダルを漕ぐように平然とメイクする。大袈裟な素振りが全く無いのがまた脅威的なスケーターである。

 恥ずかしながら柔道の知識は全く無い僕だが、今年は柔道にも期待された注目選手がいたようだった。

 兄妹選手が前回の東京大会で双方とも金メダルに輝き、二大会連続の金を期待されていたそうである。前回東京で兄妹が揃って金メダルを取っいたことすら知らなかったが、今回も同様に二人共が金を狙える状態で本番を迎えたということだ。

 しかし妹さんは二回戦で、世界ランキング一位のウズベキスタンの選手に一本負けを喫してしまった。

 一本を取られた瞬間、呆然と、現実に起こったことの把握ができていないようで、心そこにあらず、かのように見えた。対戦相手に掛けられてしまった技と、何故に相手の技の流れに自分の身体が呑まれるに至ったのか、あるいは、絡み合ってお互いに倒れた瞬間の、背中が付いてしまったのかどうかの一瞬の自分の感覚、その瞬間の客観的な判断を審判がどうジャッジしたのか。まだ手の届きそうな程にすぐ後ろで、あっという間に流れてしまった時間を、辿ろうにも辿れずにいるようだった。それらの全てを一時に判断して受け入れることが出来ないようだった。そのたった数秒間に起こってしまった現実は、自分の意識とは裏腹に、瞬く間に怒涛のように流れ去ってしまっていた、そんなふうに僕には見えた。

 試合後、彼女は泣き崩れ、立ち上がれない時間がしばらく続いた。自分では万が一にも思い描いていなかった、予想だにしない結果に見舞われた、そんな様子だった。

 人間に限らず、脳の発達している動物には、脳神経にミラーニューロンと呼ばれる部位があるそうで、自分の目の前に笑っている人がいれば、その様子を見ているうちに、特に可笑しくなくともつられて自分も笑顔になってしまったりする、ミラーニューロンにはそういった作用があるらしい。その神経細胞のおかげで我々は他人の気持ちをある程度想像することが出来る。しかしながら想像のリアリティにも限度はあって、その感情の強度は人によって様々であるし、経験の強度も千差万別である。例えば僕は半世紀の人生このかた、世界一になったことはないし、僕の兄もまた極めて非凡な男である。まして兄弟揃って世界一など味わったことがない。その頂きに登り詰めることの苦労や、頂きに至ったときの感動の強さを僕は全く想像できない。

 人の気持ちと言うのはときとして、当人以外の想像には及ばない場合がある、ということだ。彼女の無念の気持ちとその悔恨の強さの程度は、凡人の僕の想像には到底及ばない、ということである。

 世界一に君臨するほどの実力に到るには、生まれ持っての才能と、どんなことがあっても諦めずに努力を続ける意思も重要だろうと思う。どんなことがあっても再び前を見据えることが出来るのは、もしかしたら人一倍負けず嫌いな性格だからこそなのかも知れない。極めて感受性の強い人が、正規分布の中央部分にいる多くの一般人には感じることのできない、強烈な悲しみや苦しみや喜びを自身の内面に感じているのだとしたら、世界一負けず嫌いの人にとっての、最も重要な闘いでの負けの悔しさがどれほど痛く、苦しく、重いものなのかということを、一般人の僕に知ることはできない。きっと凄まじいものなのだろうと、そんな拠り所のない空想をすることしか能わない。

 金メダル以外は、勝負の世界において全て敗者である。優勝者以外は全ての選手が敗退した結果である。優勝者ですら、過去には敗者であったし、その後も競技を続けるのならば、いつかはまた敗者に戻ることだろう。いずれにせよ世界の最高峰で競い合う者たちには、生まれ持っての才能、身体的能力と精神的能力の両方に恵まれていなければ、その頂点に君臨することはできないのではないか、と彼女の敗戦を観ながら思った。

 この兄妹は揃って、同時に世界の頂点に君臨した。その強靭な精神力はきっと広く深い感受性に鍛えられてきたのだろうと思う。感じるものが深いほど、あるいは広大なほど、それらを納める器がしっかりと作られていなければいずれ崩壊してしまう。敗戦後に泣き崩れた姿は、しっかりとした堅牢性に守られていたはずのものが、一瞬の、途轍もなく大きな力によって器そのものが破壊されてしまったようだった。頑丈な器になみなみと貯えられていた澄んだ水が、溢れ出すというよりは、弾けるように破裂して器を内部から破壊したような、ある種の崩壊を垣間見たようだった。

 生きているうちには時として、不運に見舞われたり、絶望してしまいかねない不遇に見舞われることもあるかも知れない。何か思わぬ失敗をやらかしたり、謂れの無い不運に遭遇してしまうと、僕自身は根拠も無いのに、何かのバチが当たったに違いないと因果関係を求めてしまう。ただの迷信だと頭では判っていても、自分の過去の行いの何かによって僕は今この不遇に罰せられたのだ、と直接的ではない原因を自ら究明して、そこで辻褄を合わせたがるのだ。

 バチが当たる、という俚諺は根拠のない古い俗習に過ぎないのだろうが、それでもこの迷信を持ち出して、心のどこかで事の辻褄を合わせたがるのは僕一人ではないと思う。もしかしたら、技を賭けられ、床に背中を付けてしまう瞬間まで気付かなかった、負の要素が自分自身にあったことに彼女は気付いたのかも知れない。足元を掬われるような過ちを知らずうちに重ねていたことに思い至ったのかも知れない。それは本人だけが知り得る内面世界である。あるいは古い迷信を待ちだしてしまわずにはいられない、思い当たる節が彼女にあったのだろうか。

 心から喜べる快挙、やり場のない悔恨。四年に一度の世界イベントは世界中の競技者はもちろん、その闘いの観戦を待ちわびている沢山の観客に支えられている。柔道が世界競技になっても心身を鍛えるための武道ということに変わりはないだろう、とも考えられるが、世界共通のルールを据えることになったために、武道という枠組みからは少し逸脱しているようにも感じられる。いずれにせよ、取り組み方は競技者本人次第であるが、勝つことが目的ならば世界基準に自身を合わせなければならない。心身を鍛えることが目的であれば、世界一に君臨することは、たとえ順位が明確になる方法があろうとも結果論に過ぎない。ましてそれは期限付きで儚いものでもある。

 僕はうだつの上がらぬ彫刻家で、人々に与えるものなど、勇気どころか、嫉妬すらもない。羨ましいとも思われないからである。人々に頂いてこそすれ、与えるものは何もない僕も、僕の彫刻を購入して下さる人のおかげでなんとか日々を過ごしている。この御時世、現金は銀行に預けても何の得にもならないそうで、お金のある人は将来値が上がりそうなものと、お金を交換するのだという。残念ながら僕の彫刻が将来的に値が上がるとは思えないが、購入してくださる人はその奇跡を信じるのだろうか。もしかしたら購入を決める直前に、オリンピック中継を観て勇気がみなぎったのかも知れない。とにかくも、誰の役にも立たないまま、確証の無い奇跡の夢を切り売りしているのが僕の生業とすれば、勇気を与える競技者はなんとも夢のある生き方だと、今更ながら仰ぎ見た。