リードする言葉

 人類が言葉を交わすようになって何万年が経過したのか僕は知らないが、少なくとも進化の過程で、人類の祖先が言語を持たない時期はあった筈である。チンパンジーやオランウータンは今でも言語を使用しないが、そう考えると、言語の誕生がヒトを生んだ、とも言えそうな気がしてくる。元を辿れば脊椎動物はナメクジウオという、魚に似た生物に行き着くというのだが、いくら何でも喋り始めるのは随分と後の世代、というより進化の過程においてはほとんど最後の瞬間かも知れない。

 ホモサピエンスは地上に唯一生き残った人類だが、言語を使わない人類種が遠い過去に存在していたのかどうか、そして何故、ホモサピエンスだけが生き残り、他のあらゆる人類が絶滅してしまったのか、生物の歴史は摩訶不思議である。

 動物の進化は個人が想像できるような時間の流れにはない。種の進化は雄大で、非常に緩やかな時間の流れの中に並行する現象であって、一日24時間を生きる我々には到底実感できない流れに委ねられている。言葉を発する以前の人類をイメージするのは、ジュラ紀の地上を映像化するよりも難しいかも知れない。

 地球の歴史は時間の流れを圧縮すればするほどドラマチックである。現代社会の姿を、過去の人類は決して想像できなかったと思うが、もはや時間を圧縮せずとも我々は日々をドラマチックに生きることになった。生身の動物にはいささか刺激が強過ぎる感すらある。文明の利器は人類の行動力を増大させたが、その分、生活そのものが早送りされてしまっているのならば、人生のリズムを圧縮したに過ぎない。

 消費する膨大な電力は考えないとして、昨今のコンピュータの演算能力は想像を絶するものがある。単純なカロリー計算では、人間が考え事をしているときの方がエネルギー効率は良いだろうが、但し、膨大なエネルギーを投資すればコンピュータ演算能力は人間の遥かに及ばないレヴェルに至る。誰がやっても結果が同じになるような作業は、もはやコンピュータやロボットに任せれば良い、という考え方が、今後ますます普及していくだろう。理屈においてそれは正しそうだが、動物としての人類が、無駄を省いた生活を実践して健やかに生きられるかどうかは、これからの社会が注意深く観察し続けなければならない。

 例えば人類から食べること、休むこと、生殖することを取り除くことはできない。これらは80億人の人それぞれが個々人で自ら、生まれてから死ぬまでに重ねなければならない作業である。これらの作業が必要不可欠であるのは分かり易い。しかし遺伝子レヴェルで人間を観察するとき、一体どのくらいのことが生命として健やかに生きるために必要不可欠となるのか、我々は未だに熟知していない。例えば日々を一歩も歩かずに暮らしても、生きてはいられようが健やかではいられないだろう。箒を使って部屋の掃除をすることは、きっと一生しなくても問題無く生きられるのは確かである。但し、その行為が健やかに生きることと相関しているのか、生命における健やかさが足されるのか、あるいは失われるのか、ということを本当の意味で我々は知らない。調査しても分からないほど複雑な問題である。単純に、我々はとても難しい生を生きている、ということは言える。ある人は無自覚なままに日々、死に急ぐような習慣を、良かれと思って努めているかも知れないし、世捨て人となってほとんど無目的に生きているような人が、100歳まで大病も無く生きるかも知れない。人間は自らが生んだ利器に結局は翻弄されて迷路を彷徨っている,ように見えなくもない。

 利器を有用な能力、として捉えるならば、言語もまた利器と言える。

 愛という言葉がある。これまでに偉大な宗教家はもちろん、古今東西の哲学者がそれを説き、説明してきた。

 それぞれの言語によって単語の数は様々だろうが、少なくとも単語が生まれる背景には、それを共通認識できる土壌がなければ、事象が言葉として置き換わらなかった筈である。一つの独立した単語、あるいは言葉として立脚させるに相応しい唯一性が、その事象に宿っていてこそ、それは言葉として独立できた。愛という言葉も同様で、唯一性ある情動が人類の生まれつきに内在していた、あるいは、ヒトが確固とした種となるまでに、内面にある種の独特な情動が育まれていたからこそ、それは共通認識できる事象として、ひとつの言葉に置き換えることができた。そうに違いない。

 食べること、休むこと、子孫を残すこと。これらは生まれつきの欲求であり、誰に教わらなくともきっと誰もが本能的に実践できる活動である。幼かった子供が成長し、やがて生殖が可能な身体にまで成長すると、彼ら、彼女らは異性に惹かれ、何かのきっかけで特定の個人を恋焦がれるようになったりする。それは自然な情動である。もしもその特定の誰かと、自分が相手を想う気持ちと同じ気持ちで、その相手が自分と対峙してくれるとき、お互いの間に、他の何よりもお互いを大切に思う情動が湧くのも、自然なことである。その二人がやがて、自分たちの子に恵まれると、今度はその子を何よりも大切に思う情動が生まれ、子育てはその情動に支えられる。体力が衰え、視力が落ち、顔にはシワ、頭には白髪が増えていくなかで、柔らかく、穏やかに、あるいはこじんまりと形を変えていくかもしれないが、その情動はきっと消え失せることはない。

 宗教家が説くのは愛だけではない。幸せの意味も古今東西で説かれている。そういう話を聞いていて感じるのは、それまで聞いたことも無かったような全く新しい概念を説明するものではなく、言われてみればその通り、といったような、いわば原初に戻ることを説く場合がほとんどのように感じる。言い換えるなら、我々は何かによって別の何かを失念してしまうということではないだろうか。思い出せない記憶、というのではない。どこかに置き去りにしたり放棄したわけでもない。気が付いたらほとんど目に付かないところまで追い遣ってしまっている。元々授かっていたものに興味を無くして、より煌びやかなものを、能う限り制限なしに取り入れたいと願う。生きる意味はまさに煌びやかな自分の実現である。気付かぬうちにそれが明日の望みになってしまう。

 拒む理由など無い。必要なのは我に、である。自分自身に与えられる可能性ならそれを無制限に膨らませることこそが、より煌びやかに生きるための本質である。

 だがしかし、我々は老いていく。どんなに貯えても、どんなに丁寧に手入れしても、いつかは誰しもが朽ち果てる。もちろん、どうせ死ぬのならむしろ今死んだ方が手っ取り早い、という理屈にはならない。どうせ死ぬのだが、死ぬまでは生きるのが命の在り方だ。何故かは知らないが、そう出来ている。

 生まれ落ちた瞬間から僕らは死へとまっしぐらに進むわけだが、死を積極的に歓迎するのでもない。死ぬまで何が何でも生きるのであって、しかし死を抗うのでもない。理屈で考えるとややこしいのは、どこまで考えあぐねても、生きることは理屈で解るものではないからなのだろう。

 宗教家の言葉を聴くことによって本当の愛を知り、修行を重ねる中で悪い徳に汚されない幸せを体得することが出来る、つまり本当の幸福は、正しく学ぶことで初めて得られる、という見方もある。でなければ人生をいつまでも深い迷霧の中で彷徨い続けなければならない、と信じるわけなのだが、果たしてそれは本当だろうか。

 具体的な言葉や概念を必要としていないが、人間以外の動物にも愛とよく似た情動はきっと内在している。本当の愛を知ることが出来ない、というは、言葉を喋る人間の思い過ごしではないのか。思い上がりと言っても良いかも知れない。愛がわからなくなっているのは、自分に与えてほしいものの不足を憂いているだけかも知れないし、自分自身が至高の価値とされていないことに対する嘆きなのかも知れない。それらも生存戦略の現れと言えるかもしないが、どちらかと言えばむしろ無知に近いように見える。では教えを請わずにどうやって無知から脱するというのか。知るとは、どうやら考えて答えを出すこととは違うようだ。

 言葉を持たない動物が、愛や幸せを本当の意味で解っていると仮定するなら、明らかに彼らはそれらを極端に深くは追い求めていない。そう考えると、言葉は悟るための道具ではないらしいことが見えてくる。

 一方で、動物たちは愛や幸せを、実際には何も解っていない、と仮定することもできる。それならつまり、宗教家の教えを乞うているのは動物たちである。