見えないここ

 2025年が明けた。今年、8月15日を迎えたら終戦の日は80回目だそうである。終戦記念日と言われることも多いが、記念日という言葉からはなんとなく平和裏のうちに戦争を終結させたよう感じがしないでもない。大東亜戦争はそもそも勝ち目が無いと薄々解かっていながらも、引くに引けない状況に追い詰められたと浅薄に思い込んでしまった、当時の、軍隊出身の総理大臣、あるいはその首相を取り巻く日本政府の、懸命でなかった過ちによって開戦してしまった戦争、と後世の我々は振り返りがちである。

 戦争はつくづく愚かな行為だ、と他人事のように考えてしまうのは、当事者でない人間にとっては致し方ないだろうし、人類がまだまだ浅はかで未熟だった頃までの過去の歴史物語だと捉えがちになるが、今日でも大小様々なかたちで戦争は起きている。2022年の2月24日に勃発したロシアとウクライナの戦争は開戦から既に三年になろうとしていて、水面下で何が起きているのかは知らないが、終結の気配は感じられない。ヨーロッパ在住の自分にとっても、もはや日常の一部になっていると言って過言ではない。ウクライナ出身のストリートパフォーマも日常の景色の一部のようだし、旅客機がロシア上空の飛行ルートを回避するのはもうデフォルトと言える。ここイタリアにもウクライナから逃れてきた人は多く、今もきっと流入していると思うが、ウクライナの悲壮は開戦当初こそあちこちで報道されたものの、三年近く経過した今では、日常の生活において取り上げられることはほとんど無くなったと言っていい。

 イスラエルとパレスチナの対立も2023年の10月に再燃し、特にガザ地区はひどい攻撃を被った。イスラエルは建国以来、緊張が解かれたことはないが、現在の緊張はこれまででも最も難しい状態とさえ言える。紛争地域の拡大はおろか、介入する国も増えて、中東の混乱は悪化の一途をたどっている。

 さすがに現代日本においては、直接の戦争参加はなかなか考えにくいことだが、その日本ですらたった80年ほど前には、国全体が出たとこ勝負の博打の犠牲になっていた。自らを大帝国と名乗るほど高邁で浅薄な国家だったのは我々自身である。

 僕の祖父は飛ぶことしか能の無いパイロットだった。戦中は真珠湾を爆撃し、その後、ミッドウェーに参戦したが帝国軍は壊滅して、祖父は母艦が沈む前に海へと逃れ、漂流した末に、救助に来た駆逐艦の浜風に救われた。当然、死んでしまっていても全く不思議でない状況を、奇跡も不運も無いままに通り抜けた。当時23歳だった。戦争とは遠い世界で起こっている、自分とは無関係の極めて特殊な状況と僕はつい考えてしまうが、僕の祖父はその気狂いじみた状況に青春を賭けていた。戦後は自衛隊の発足までの7~8年のあいだ、仕事らしい仕事に就くことはできなかったが、生活の糧を闇で得ていたあいだに3人の子を儲け、運良く今の僕がいる。

 日本の歴史を考えれば、武士はおろか、商人や農民までもが刀を所持していた時代もあったそうで、僕はてっきり武士だけに許される帯刀と信じていたのだが、ヨーロッパにおける中世のように、日本にも市民同士の流血の歴史がなかったわけではないようだ。司法立法行政の確立は明治政府以降であるから、江戸時代まで世間の治安は市民が身体を張って治めていた、と言えなくもない。遠山の金さんのような町奉行もいたのだろうが、それも極めてローカルな話だ。各々が自らの正義や美意識に則って、やりたいようにけじめをつけていた小さな社会が大半だったのかも知れない。

 地球そのものだって常に動いていて、宇宙の中で一定でいたわけではない。寒冷期だ氷河期だのと過酷な生活を強いられる状況を地上に作ってきたし、遠い将来は酷暑で生物は壊滅するというのだし。その地球をマクロの視点で観察すると、人間社会が見え、その中で治める者と治められる者との間で衝突は繰り返されている。いつまでも黙っていられない、という反発や実力行使は個人でも集団でもいつどこにでも起こり得る。人間には理性で判断する特異な能力もあるにはあるが、社会や歴史を観る限り、ある惑星が他の惑星の重力に抗えないのとほとんど同じ様子で、人間も互いの存在の影響から自由になれた歴史はなく、物質が重力に捕われたまま運命を預けてしまうように、人間も自らの感情の支配から無重力に至ることはない。

 戦う人たちは時として、犠牲にするものを一切顧みない。勝利が得られないのならば、一切を失っても同じことだと考えるためだろうか。だがきっと、それは間違いだ。自分にとって最も重要なものが侵害されたとしても、まだほかに失ってはいけないものは在る筈で、どこぞの王子さまが言ったように、それはきっとまだ見えていない。生きるのがややこしいのは、この見えないものの存在に気付くためには大抵の場合、それを一度失わなければならず、失ったのと時を同じくして道をも踏み外しているからだ。さりとて失う以前はそれに気付いていないのだからつくづく人は度し難い。

 ニュートンの万有引力の法則ではどうしても辻褄が合わなかった水星軌道が、アインシュタインの相対性理論によって辻褄が合致した。それと引き換えに世界は時間と空間を歪めても良いことになって、そうすると今度は空間と時間を極限まで歪めてしまう質量無限大のブラックホールが誕生してしまった。無限大では計量することが出来ないから、点を線に変えて無をどうにか有にしてみたが、今度は宇宙がヒモだらけになってしまって三次元空間が多次元になってしまった。今もこんがらがったまま収まりは付いていない。

 万有引力の法則を知る前から宇宙は今と変わらず存在していたのと同じように、大切なものはきっと今も昔もこれからもここにあると思うのだけれど、結局、じっとしていられないのが人間なのだ。