ひとつの弱点

 このところ、オールドメディアと新しいソーシャルメディアとが対立構造を呈して、大衆の声とマスメディアの報道が二項対立のように、しかしながら人と人とが対峙するような場所ではなく、どこかの架空の広場で、言い争いとも違った、ほとんど手加減の無い一方的な攻撃が溢れている。一方が他方の揚げ足を取ったり、単に虐げるだけのような、もはや問題の本質からは遠退いてしまった状態でも、人はその架空の広場での見世物に夢中になっている。

 イタリアは古代ローマで栄えた土地であり、その後も沢山の地方国家がそれぞれの個性をもって栄えていた。イタリア共和国として統一されたのは1861年のことらしい。

 イタリアには各地に古代の遺跡として円形劇場が今も残されている。ローマのCorosseoはとくに有名だが、他にはヴェローナのArena、ヴェスヴィオ火山の噴火で街ごと埋もれてしまったポンペイにも、大きな円形闘技場があった。ソーシャルメディアの架空の広場で繰り広げられる見世物は、世界中の誰もがいつどこでも好きなときにアクセスが可能な、特定の場所を持たない架空の広場だが、人類の歴史において、人々の熱狂を集めるためには大きな空間と建造物が必須だった。

 それらの巨大な闘技場や劇場も過去の遺跡となって、今では機能していない。それはそもそも、それらが栄えた頃の国家がそれぞれに衰退したからである。ソーシャルメディアの闘技場はこれからしばらくは栄えるだろう予感はする。人々の熱狂もしばらくは治まらないであろう。しかしながらそこは人類の将来を助けるような希望の空間とは、今のところ感じられない。世界中の人々のストレス発散の場として極めて有効に機能はしているようだが、快楽による生贄の虐待からはきっとなにも、人類の救けになる価値は生まれないだろう。

 強大な国力をもってその力を象徴するようなスケールの闘技場を建造した古代のローマも、あれほどの国力を持ちながら衰退し、ついには消滅してしまった。国家もある意味では生きものであって、成長繁栄の後には徐々に衰退の道を辿るようである。命あるものと同様に、物質的な骨格はいずれ土へと還る。

 生物が地上に生まれ、その寿命を全うして朽ちるとき、そこには自然の摂理が通底している。一方で、与えられた寿命の間に、他より秀でた能力を持ち合わせて、その力をさらに発達させて社会的に優位な立場に君臨することに成功したものは、自身の力によって繁栄を手にすることがある。しかしながらそういった繁栄を手にする者も、完全無欠というわけにはなかなかいかず、苦手とすることはあるようだ。プロスポーツの世界を見ると本当に多種多様な選手がいて、それぞれに得意とする部分は他と微妙に異なり、団体競技においては選りすぐりの選手達がお互いの長所を活かしながら、なおかつそれぞれの弱点を補い合うかたちで、チームをひとつの強力な個体として機能させる。個人競技において長く第一線で闘い続けるには、余程、弱点が少なく小さい、極めてバランス良く全ての能力に秀でているのか、あるいは自身の弱点に極めて自覚的で、且つ賢明で、それこそ懸命なトレーニングでそれらを弱点とさせなかったか、のいずれかかも知れない。

 もちろんどんなスポーツ選手にも適齢期はあって、その時期はいずれ過ぎ去ってしまう。気力体力が衰えれば第一線で活躍することはできないが、それは選手としての寿命であって、弱点とは別の、克服できない衰退である。ただ一方で、やはり弱点に足を掬われてしまった選手も実際には少なくないだろうと僕は感じている。

 長所を磨いて伸ばす、という訓練は社会生活での優位性を確保するために広く受け入れられているようだが、ひとつの弱点に打ち勝つ、ということはあまり耳にしない。誰にとっても弱点を克服することは、長所を伸ばすことよりもほとんどの場合において、一層困難だからかも知れない。同じ時間を費やすのならば長所を磨くために努力することのほうが有効だと広く信じられているが、ひとつの弱点にいずれ自身の足が掬われる、ということはあまり顧みられない。少なくないスポーツ選手が実は弱点によって長所を活かしきれなかったということはあっただろうし、もしかしたら古代の国家においてもその寿命によってではなく、弱点に足を掬われて消滅した歴史はあっただろうと想像ている。

 自分自身を優れた競技者へと成長させるために、自分の弱点に対して敏感で、自覚的で、しかも克服の方法を見つけられる人は、もしかしたら長所を伸ばし続けるだけの人を実力で打倒できるかも知れない。それぞれの競技者が持つ長所がどれほど強力で他より優位に立っているか、ということと比べて、ひとつの弱点の克服を優先的に注目すべきなのかどうかは、きっと誰にとっても明確な答えを得られない問いだろうと思う。具材の味付けにどんな調味料をどれだけずつ配合したら最も料理を引き立てられるのか、ということに完璧な正解はきっと存在しないのと同様で、しょうゆの旨味をひたすら際立たせるのか、お酢の雑味を除くことに徹底するのか、最終的な選択は直感に頼るしかないだろう。直前に出された料理の味、あるいは食べる人の普段の食習慣と好みによって、どんなお膳立てが最もふさわしいのかは違ってくる。どんなにシビアになってみても究極的に僕らは一期一会を生きている。

 しかしながら、ここぞというときになって、毎度毎度、自分の足を引っ張る弱点が自身にあることに薄々でも気が付いていて、それを懲りずに毎度毎度、見て見ぬふりを続けているのなら、きっとそこから上にいくことはできないだろう。どんなに懸命に自分の長所を伸ばしてみても、である。

 いつかは寿命が来て、我々はみな、古代都市と同様に朽ちていく。そう考えれば大変な思いをしてまで努力を続けることに大した意味を見出せないのも当然かも知れない。ただ道を歩くだけの毎日なのならば、空が廻っているのか、この地面が回転しているのか、この違いはどうでも良い。ただ、あなた自身がこの違いに気付くことで、今までとは違った別の世界が見え始めるのだとしたら、新しい世界を見に行くのも悪くない、というだけの話だ。

 トリノに越してきて既に一年半が過ぎた。トリノという街はイタリア共和国の最初の首都であったことからも想像できるが、過去に繁栄を経験した場所である。古き良き街並みが今も保存されていて、それと同様に人々もまた、若いエネルギーに溢れてはいるわけではないが、成熟した品を持っている。中心街は全体的に集合住宅しかなく、どんな人もそれぞれに分相応なアパートメントで暮らしている。家の中で犬を飼う人が割りに多く、休日は犬の散歩をする人々であちこちの広場が賑わっている。今のところ、一年半の間、犬の糞を踏んづけたことはない。ただ、いつかはやっちまうだろうな、と覚悟はしている。その時はなるべく落ち込まないように心構えも今から準備している、つもりである。ただ歩くのだってそれなりの注意が要る。