自己実現
都市生活がもはや当たり前になっている現代の我々にとって、不便な田舎の生活をわざわざ求める人は、実質的にやはりまだまだ少ないだろう。
田舎では就ける仕事の選択肢は限られているし、ショッピングをするにも流通している商品は都会のそれと比べて選択肢が限られている。インターネットを上手く活用して仕事もショッピングもオンラインで解決できるとも言えるが、逆に言えば100%オンラインだけでこなせる仕事は限定されるし、ショッピングもやはり商品は実物を手に取って判断したい、と多くの人は考えるようだ。
都市には田舎にない沢山の仕事があるし、頑張れば自分次第で、人より活躍することが出来る、という可能性も秘めている。
自己実現への無限の可能性が都市には眠っている。田舎には数十年後の将来すら殆どイメージできてしまうような、平凡な生活しか選択できない、ような気がしてしまうのもあながち嘘ではない。
そういう理由で都市には今も昔も人口が集中していく、だろうと思う。自己実現のために田舎を出て、都会で生活し、そして恋人と巡り合い家族を持った、そんな両親に育てられ、懐かしむ田舎を持たない若者も、現代には多いかも知れない。
人口が集中しているにもかかわらず、都市は実のところ出生率が低い。単純に考察すると、都市での生活を選択するのはやはり自己実現が主目的であって、その自己実現には子供を儲けて家族を形成すること、は含まれていないのかも知れない。
人間、誰しも両親をもって生まれてきている。それは古今東西、変わらない真実だ。両親を持たずに聖母マリアから生まれたイエスキリストは宇宙史に残る例外である。
誰しもが両親を持つ、という事実は、発生の系統を遡り続けることが出来て、しかも絶対に出発点を特定することが出来ないことを意味する。なぜならそれは地球における生命の誕生と直接関わっていて、今を生きている我々の祖先は、究極的には地球の生命誕生の瞬間に立ち会った命そのものと言えるからである。生命の誕生が未だ解明されていない以上、我々の祖先の出発点は特定できない。一つ確かなことは、数え切れないほどの世代交代を経るなかで、一度たりとも生命は、交代を省略することをしなかった点である。
人間が生きるために必要なことは衣食住と良く言われるが、都市化が進み過ぎた現代においてはもしかしたらそこにもう一つの要素を加えなければならないのかも知れない。何故なら生命は自分だけが生きることでは成立できず、その他のあらゆる生命を必要とするからである。つまるところ、生きるために必要なのは衣食住とパートナーと子供、である。世紀の発見のように勿体ぶった言い方をしたが、きっと半世紀前までは誰しもが理解していたことである。日本においては戦後の焼け野原から復興して、瞬く間に経済大国となって東京を世界都市へと成長させたが、今度はその大都市での生活において、生きることの本質から子供が省略されてしまった、ように思える。
昨今は益々晩婚化が進み、第一子をを儲ける女性の年齢も高くなっている。しかし、子供を育てるのはやっぱり若いお母さんが適している。何故なら子育てはとてもハードワークだからである。ほとんどの若者が男女を問わず、大学に進学し、結婚前にとにかくも就職して、これまた男性女性を問わず、経済的自立を一人ひとりに要求する時代になって、晩婚化するのは全くもってやむを得ない。
物心ついたときに、いつかは自分も大人になることを頭で理解し、いずれは自分の力で生きていかなければならない、と考えたのは昔のことで、現代は、いずれ学業を終え、今度は就業の集団の中へ自分を浸すのに、その中で自分だけは何かしら優位なポジションを獲得したい、と望むようになった。それがつまりは自己実現の導火線に火をつけるようだ。自分の力で生きなければ、ではなく、人より有利に生きなければ、に移行したのだ。そうすると、伴侶や家族が居ることがときとして不利に思えてしまっても不思議ではない。
自己実現と一言で言ってもその内実はさまざまであるが、共通しているのは自分が何者かになる、ということである。“何者か“に昇華するためには殆どの場合、他人の評価を必要とする。その評価を得るために、人の心を掴むための手練手管を弄することが我々に要求される根本である。釣り鐘型で有名な正規分布を考えると自ずと判ることなのだが、多くの賛同を得るためには、突飛であってはならない。突出し過ぎていて誰も付いて来れないのでは、流行を生み出すことはできない。だからこそ多くの賛同を得るものは、一方で他の誰かに置き換わられ易くもある。だから流行なのである。さらに言えば、有利に生きるためのほとんどの要素は、世界の根幹を成すような物事の本質的な部分と、当然だが無関係である。
話は少し飛躍するが、自己実現と健康は場合によって、もしかしたら相性が良くないのかも知れない。健康の内でも特に、精神的な健康のバランスを崩している人が現代人に顕著である。誰しもが何者かになることを望んで、そして精神疾患を患う。若い頃に二児や三児の子を儲けて格闘する日々を送っていたなら、タフなお父さんお母さんになっていたかもしれない。もちろん、逆に家族そのものが悩みの元凶となる場合だってある。しかし、もしも田舎で、SNSを捨てて生きられるとしたら、多くの悩みは軽減されそうな気がする。試してみなければ分からないが、いずれにしても情報が多すぎてそれらの全ての真偽を、あるいは有用無用を正確に判断できるだけの経験値を、一人ひとりの人間は持ち合わせていない。誰一人として、そんな膨大な経験値を得ることは能わない。情報に関しては何故か、足るを知る、で距離を置くことがなかなかできないようだ。
現代社会の在り方はとても便利にはなったのだが、あまりに多くの問題を抱えてしまっている。このままリニアな成長は見込めない。地球環境だってもたないし、我々自身でさえ、感性を歪められてしまった家畜のごとくに生きるしかなくなっている。
でもきっと遠い将来にはまた、人類は沢山のことを諦めながら、しかし新しい一歩を踏み出すのだろうと、個人的には楽観している。直近の課題はただ一つ、僕の余生を出来る範囲で満喫するために、今日を自分なりにしっかり生きることであり、明日もまたそれを繰り返すことである。
しっかり生きられたら、それが今日終わろうが明日終いになろうが、絶望することはきっと無さそうである。ただ、しっかり生きるのはそれほど簡単ではなくて、安堵して床に就く夜などここ数年あった例がない。