barter
われわれ人類は、地球上の動物の中でも特徴的な生存手段を持っている。そのなかでも特に物々交換という生活形態は独特である。
本来、生命は自身の生存を維持することを他人任せにはしない、つまり腹が減ったら自分でどうにかして食う手段を見つけて、実践しなければならない筈である。しかしながらその人間と何らかの形で共同生活を送るようになった家畜動物たちは、自分たちで食う手段を見つける必要が無くなった。人間に奉仕することで生活を保障されることを知ったからだ。見方によっては人間が持ち掛けた交換関係と言える。彼らが奉仕ということに関してどこまで自覚的であるかどうか、そればかりは不明である。
歴史的には食用の家畜動物より以前に、まず犬や猫が人間と共同生活するようになった。つまりこれらの動物は人間の計らいによって生活が保障された。人間はこれらの動物を交換条件によって自分たちの生活圏内に侍らせることに成功したのだ。当然のことながら、これらの野生動物を手懐ける以前から、人間は仲間同士で、あるいはきっと近隣の部族同士で交換条件を成立させていたに違いない。
物と物の遣り取りが一番分かり易い交換関係だが、具体的な物ではなく、行動さえも交換できることを発明したのは、人間をこれほどまでに特徴的な動物にした要因であると思う。さらには“搾取”という新しい関係も見出した人間は、それまでの多様な交換関係をさらに発展させることに成功した。
搾取と言うと一方が他方からの圧制的な主従関係にあるのは実際的な要件であるが、なんというか、その、従属させるものに対する泳がせ方が微妙で絶妙である。これも見方によっては交換関係と言えるのではないかと思う。
話はやや飛躍するが、昨今、有限な化石燃料の枯渇が懸念され、代替エネルギーの開発が多方面で研究されている。文字通り待った無しの案件なので世界中の研究者が様々な手段を模索しているが、本当の意味で化石燃料に置き換わるような便利なエネルギー源は見出せていない。化石燃料の利用は地球に対する搾取で、交換条件として人間が被る気候変動が最も実感し易い。
現代の、いわゆる先進国における現代社会のありようは、ますます貧富の格差が増大し続け、まだしばらくはこの流れを本流として世界は動いて行きそうである。ほとんどの場合で、より富める者はより多く搾取することに成功する側に居る。搾取されるのは自分たち以外の別の人間であり、何よりも地球環境そのものである。
儲けている側の人々はとにかく搾取し続けている。その交換条件の内容は千差万別であろうが、一時的であれ、利潤が圧倒的に多くなる生活形態を維持している。最初に言ったように、格差の拡大がこのまま続くということは、富める側の搾取はこれからも増えることはあったとて減ることはない。条件的にその搾取を止める権利は富める者たちの自己規制に頼るしかないからである。人間は度し難い、故に搾取における、する側の自主規制は困難甚だしい。
人間は他の動物たちと同じように食べ続けなければ生きていられない。人類の食生活を維持するのはいわゆる第一次産業であって、その労働人口は益々減少しているし、海洋資源も年々減り続けている。あらゆる魚たちが絶滅する、ということはないだろうが、魚を食べ続けるということをいずれは本気で危惧するときが来るだろうと思う。
昨今、どんな仕事に就けばより儲けられるか、ということには多く関心が向けられるが、儲からない一次産業を蔑ろにし続けて、われわれはどう生きていくのだろうか。
“人生“という言葉を使うとき、ひとは他の動物と人間を区別している。しかしながら人間は、人生を生きると同時に動物としても生存していかなくてはならない。豊かで充実した人生を実現することは望まれるべき理想かも知れないが、動物としての生存がどうやらそこに上手く嚙み合わないことが見えてきている。もちろん、巧みに折り合いをつけて実践されている方もおられると思うが、多くの場合はバランス感覚が鈍いようである。
地球はおろか、宇宙の成り立ちに思いを馳せるとき、想像力だけでは補いきれない途方もない時間の経過があったことを知らされる。将来的には地球そのものが消滅するという未来はほぼ確実に到来するようだが、この将来像もまた、想像力だけでは補いきれない途方もない時間の経過を経なければならない。いずれにせよ人類はどのみち消滅するだろう。現代の繁栄はそこに至るまでの過程の一部である。将来的に何が起こっても不思議ではない。世界人口が東京都のそれくらいにまで減少する時代がそう遠くない将来に到来するかも知れない。そうしたら再び、人間は新しい視点できっとまた交換関係を探すだろう。
100メートルを9.5秒で自力で走るとき、一体どんな有意義な交換を成立させることが出来るだろうか。搾取ではない、バランスの取れた交換という意味である。圧倒的に美しいハーモニーと感情揺さぶるドラマチックなメロディを奏でるとき、音楽家は自己実現意外に、一体どんな交換を実現できるのだろう。脳内麻薬が故に人は自己錬磨し、音楽に酔うのだとすれば、その脳内麻薬を必要としてきた我々の祖先が何らかの理由で淘汰を生き抜いて今日に至ったのかも知れない。自己実現における交換関係は、外面的には対自分自身であるようだが、それは単なる屁理屈で、もしかしたら麻薬分泌量が過多に生まれた奇形なのかも、と僕は少し疑ってみる。いずれにせよ、生存することにもう少し丁寧に居たいと思う日々である、周囲の反感を買うのは必至だけれども。