包丁研ぎ
芸術とどのように向き合えば良いのか、という命題は、多くの方が一度は突き当たる問いではないかと思う。
芸術作品を創作する立場にある人と、それとは反対に、出来上がった作品の鑑賞を通して享受する立場の人とに分けられると思うが、つくる側においても、享受する側においても、芸術との関わりにどんな意味があるのか、その役割と価値について正しい見識を持って対峙したいというのは誰しも考えることと思う。
僕自身としては、芸術の意味や価値ということに重きを置いていない。つくる側にいるにもかかわらず無責任であることは重々承知しているが、意味や価値を個人個人が内省的に考察するのは素晴らしいことで、きっとそれが大切なのだろうと考えている。別の第三者に与えられるべきものではないという意味である。こと芸術の意味や価値について、それを別の誰かから与えられるのは多くの場合、害にさえなってしまいかねないと危惧している。
というのも、意味や価値を考察するという行為自体が得意不得意のあるもので、客観的に考えをまとめたり言葉に置き換えることが得意でない人もたくさんいる。僕自身がそうである。しかしだからと言って僕が音楽鑑賞してはならない理由にはならないし、小説を読んで感動できないわけではない。わかりにくい言い方かもしれないが、芸術作品がなぜ人を感動させるのかより、人間にはなぜ感動する心が備わっているのか、を問うことの方が本質的ではないかと思う。
なぜ喉が渇くのか、なぜお腹が空くのか。なぜ異性を求めるのか。なぜわれわれ人間が眺める星空には星座あるのか。
言葉は事象を表現したり説明したりする場合にとても有効であるが、その言葉を使って説明したり表現したりする対象が全宇宙の全ての事象に可能なわけではない。これはとても大切なことで、ある事象は色でのみ実存の証明が可能であったり、ある事象は味でのみ証明が可能であったり、またある事象は温度でのみ証明が可能であったりする。言語に代替できない実存もあるということ。
芸術の意味の説明は時として本来的な自己矛盾を内包しているような気がしている。もしも芸術作品と対峙したときに何か直感するものがあるのならば、その直感がどんな類のものであれ、言葉による説明を瞬間的には凌駕したのではないかと、僕自身は感じている。
我々人間にはわかりたいという欲求が常にある。その点で、芸術を理解したい衝動は人としてとても素直な反応だと思う。
無限に広がる宇宙とそこに内包される全ての詳細を空想してみて、個人の存在の限界をイメージすることも有益かも知れない。
少なくとも芸術家の表現は、何かを理解したからつくった、というよりはもっと異質な動機がその原初にあるのが伺える。
我々が持つ五つの感覚以外にも、閃きや直感という感覚を我々は確かに持っている。
その感覚も、他の五つの感覚と同様に、磨いて研ぎ澄ますことで鋭敏になるのだと思う。
良く切れる刃物は使い方を誤らなければ至極便利なものである。
しかしながら良く切れる刃物がなくても、人生を全うすることはできるので、結局のところ、芸術家は好きにしていれば良いのかも知れない。