ニーズを読む
ニーズを読む、あるいはニーズを予測することは、今日の我々の生活には重要な要素となっている。
ニーズの全くない物事に従事してみたところで、見返りは望めないからだ。
ニーズに敏感になるのは、需要の多いものを供給するほうが、労働力がより円滑に活用され、労力の無駄を削減できるからかも知れない。
需要の少ないものを大量に供給することは、原理的に不可能だ。
供給には需要という受け皿が必要不可欠になっている。
あらゆる仕事は供給である。仕事で効率よく収益を上げるには需要を確保する必要があるのだ。
日本国内を見れば、今や国内の就労人口のおよそ70%が第三次産業で、つまりは商品やサービスの分配に携わる全ての職業がこれに当たる。
一方で、直接自然と対峙して食料や木材を生産する第一次産業は、日本全体ではおよそ3%前後である。驚くべき数値である。
たったの3人の日本人が100人の日本人の食料や木材を賄っている、という単純な話では、実はない。例えば2020年における日本の食料自給率はおよそ38%とされているから、単純計算では、日本の家庭の食卓に上がる食品の2/3は外国産というわけだ。
ちなみに日本の木材供給量における外国産輸入材もおよそ2/3程度である。
第一次産業である食料生産は、最も需要を確保しやすい産業であると云えるが、日本の場合はいろいろな事情から第一次産業の就労率は現在の3%前後に落ち着いている。
その3%の就労者の方々が日本の食卓に上がる食品のおよそ1/3を生産しているということ。
日本国内に限って見ると、食料においては需要に対して供給が満たされていない。
自国の生産では満たされていなくとも、それでもなお事足りているという状況。
これを、冒頭に掲げたニーズの問題として考えると、日本の国としての現状は、言ってみれば供給可能なほとんどあらゆるものが飽和状態にあるということだ。
世界的に見て、日本人はどうしたってお金持ちでないわけがない。
なぜなら、食べ物はお金を払って外で買ってきたほうが効率が良い、という状況なのだから。つまりは3食のうちの2食は外食にします、というのを、日本は国家の方針としているようなもの。
3食のうち3食すべてが外食ならば、ほとんどホテル生活のようなもので、そんな国家が世界のどこかに有るのかは知らないが、3食のうち2食を外食にする生活でも、やはり衣食住においては飽和状態であると云えるだろう。
飽和状態でないのは、各自に与えられた自身の身体そのものくらいではないか。
話は戻って、現代社会でニーズの多いものに、エネルギー資源がある。
日本は石油や石炭を産出しないので、エネルギーの自給率がほぼゼロであることから、加工貿易によって国の生計を立てているのが現状だ。
危ういと云えば危うい家計であるかも知れないが、切迫しているようにも見えない。
しかし、想像してみると我々の日常生活は微妙な均衡の上に成り立っている。
家に帰って、明かりをつける。照明のスイッチを入れると、真っ暗だった部屋が一瞬で明るくなるのだが、それはスイッチを入れることで電球に電気が通るからである。
その電気は無数の電信柱に張り巡らされた電線によって各家庭に配られており、電線を辿っていくといつかは大元の発電所へとたどり着く。
そこが火力発電所ならば、石炭もしくは石油によって火力が供給され、電力へと変換されているわけだ。
供給源となる石炭や石油は、日本国内では産出されていないから、海外からの輸入に頼っている。
石油であればタンカーに積まれて主にサウジアラビアなどの産油国から送られてくる。
もちろん、これは買い物であるから、送られてくるというよりは買いに行くと言うべきで、コロナ以前は中国から買い物客が爆買いしに来日していたのと同じように、日本は何十年もペルシャ湾へと原油爆買いに日々出掛けているのだ。それはコロナ禍でも同じこと。
絹織物の取引が世界中で盛んだったころはシルクロードと呼ばれる行路を辿って交易がなされていたが、石油はオイルロードと呼ばれる海上航路を辿って交易がなされる。
大型のタンカーに30億リットルの原油が積まれ、片道およそ20日の航路は、サウジアラビアを出航するとペルシャ湾とアラビア海とを結ぶホルムズ海峡をすり抜けて、広大なインド洋の上端を西から東へと横断し、マレーシアと、インドネシアのスマトラ島に挟まれたマラッカ海峡を縫って、ブルネイ、フィリピンを横に見ながら台湾南部を通過しつつ、北上して日本の製油所を目指すわけだ。
そういう長い長い時間と手間と、乗組員の命をかけて日本にもたらされた原油によって、我々の家の照明が明かりを灯してくれる。
ろうそくで明かりを灯すのとはわけが違う。
わけは違うのだが、ろうそく生活の需要はもはや、ほぼ皆無なのだから、供給はされない。
それもそのはず、ろうそくだけの照明で生活するなんて、いやはや不便すぎるではないか。
だから遥々往復40日をかけて30億リットルの原油買い付けに出かけるのだ、命懸けで。
食料自給と一次産業就労率もまた然り、自分が額に汗しなくとも、幾ばくかのお金を支払えば他の誰かが自分達の代わりに、額に汗して食料を生産してくれる。
需要のあるものが、供給を求める。
化石燃料が発見されていなかった頃、あるいは化石燃料の採掘が技術的に難しかった時代までは、薪が火力の供給源だった。
日本では国土の約7割ほど、森林が残っているが、ヨーロッパの多くの国は逆に7割ほどをすでに伐採してしまっている。
世界に先行して近代都市と産業が発展したヨーロッパでは、木材による火力の需要があったので、どんどんと供給された結果だ。
モアイ像で有名なイースター島は、亜熱帯の原生林に覆われた孤島であったのだが、文明の発展によって、原生林の木々は最後の一本まで伐採されてしまった。
イースター島もまた然り、木材の需要があったのだ。
昨今、人気のあるものは瞬く間に需要をバブリーに膨らませる。
人気商品はこぞって消費が扇動される。人気のある人物も、見方によっては商品と云えなくもない場合があるから、そういう方達の消費もまた、バブリーに膨らむ。
バブリーに膨らんだものはいつしか弾け、別の人気商品や人気者が台頭する。
需要は供給を補完するが、供給が無限に続くことはない。
すべてのものは有限なのだから。
資源も、与えられた時間も、人の興味も。
どんなに大きな現象も、長く続く流行も、総じてみれば一時の傾向にすぎない。
一方で、流行り廃りの需要に反映されない、言うなれば時代にとらわれないニーズが存在する。
呼吸がそうだ。
ニーズをいち早く認識して、より豊かな生活の創造を目指す。
御座なりに締めくくるわけではないのだが、良く生きるというのは、なんとも曖昧模糊としてる。呼吸にだってクオリティを求めることが出来るし、衣食住の拡充に求めることもできる。
そして、世の常として、全ての事柄には限度がある。
豊かな生活の礎は築けるが、それを獲得するために犠牲にするものと、獲得した後にそれを享受できる時間を天秤にかけた場合、豊かさとは必ずしも拡充だけでは語れないだろうことは想像に難くないが、さりとて諦観がすべてを丸く収められるとも思えない。
人生一筋縄では行かないものである。