お掃除
週に一度、掃除をする。僕が幼少の頃、家の掃除が一日の始まりという習わしだった僕の祖母は、はたきを使って障子の桟を叩いくことからその日の家事を始めていた。
今、僕ははたきを使っていないが、箒と塵取りは好んで使っている。一日の始まりは掃除から、とまではいかないが、せめて週に一度はのんびりと掃除をすることにしている。
昨今は便利な世の中になって、掃除は専らロボットが代行するようになった。次第に家具のレイアウトもお掃除ロボットの運行を妨げないように工夫され、家主の好みよりもお掃除ロボの都合が優先される場合もあるようだ。
自分で掃除をする必要が無くなる分、節約できた時間に別の過ごし方を選べるわけで、とても得をした気持ちになるのは確かである。個人的にはしかし、暇な時間を与えられると逆に無為な浪費をしてしまう悪癖がある僕のことなので、敢えて時間的には遠回りになる方を僕自身は選択するように心掛けている。
煙草やアルコール、合法、違法の薬物も含めて、人間は兎角、依存傾向の強い動物である。個人の意志の弱さというよりは、種としての傾向なのだろうと思うので、依存にあらがうことはきっと誰にとっても簡単ではないはずだ。さらに言えばそういった依存性のあるものは人間社会の中でも拡散力が強く、つまりは社会で流行になるものの多くはじつはそこに何かしらの依存性が内在していると、僕個人は疑っている。流行りを追うことの弊害は、特に僕のような芸術畑で生活する者にとって、ユニークな発想を得ることが難しくなる、という部分にある。
日常生活の中で、見ることやることの悉くが他の多くの人間と共有されているとすれば、奇想天外な領域へのジャンプは一層困難になるだろう。武道館コンサートの観客側からはなかなかステージ側へ飛び移ることは難しい、というニュアンスだ。
あらかじめ断らなければならないが、なにをやったらステージに登壇できるか、そのための指南書を書いているのではない。それはひとえに才能と運次第であって、万人がそのチャンスを平等に与えられているわけではないからだ。だがしかし、才能薄弱でありながらも芸術で生活を成り立たせようとしている僕には、武道館コンサートの観客側に自ら埋没することは、そこで得られる興奮や熱狂の如何にかかわらず、自分の能力の幅を狭めてしまうことになりかねないので、出来得る限りそれらの熱狂から遠退くことを自分に課している。
芸術にたずさわるには、世界を眺める視点も、考察する論点も、独特であるに越したことはない。養老孟司先生は、精神病棟の患者様方が最も独特で個性的だと指摘しているが、芸術の場合には、提示するものが独特でありながらも、そのことが意外に誰しも共感し得るという、懐の広さをしっかり内包していなければならないという条件がある。それこそが芸術の難しさと、人を惹きつける魅力の根底になる部分であろうと思う。
ここで話を振り出しに戻すと、僕が好んで箒と塵取りを使うのは、この二つの道具で家中の埃を取り除くにはそれなりの身のこなしが要るからで、しかも掃除の手順を上手く考えなければ、一度掃除した場所を汚してしまったり、あるいは掃除の後にも何処かに埃が残ってしまう、という結果に陥ってしまいかねない。身体の使い方と、作業工程を先読みする思考力とが必要条件であって、それらは須らく、実際の日々の彫刻制作においてもとても重要な要素である。つまり僕がお掃除ロボを好んで使わない理由は、自分自身の手入れを時間節約よりも重要に考えているからである。
自分自身を手入れする、というのは、自分の身体も頭も日々変化し続けていることに対する備えである。変化を防ぐことはできないが、その変化に対してすこしでも自覚的でいるのは有益である。僕自身、身体にも頭にも怠け癖が付くことに非常に警戒している。それが自分の生活にほとんど直結して影響が出るからである。端的言えば、質悪な作品を生産すれば、そのぶん質悪な水とパンしか得られなくなることを肌身で知っているという意味である。
これをすれば脳が活性化されるとか、これを食べれば神経活動が効率化されるとか、そういうノウハウを知っているわけではない。生活を維持するという観点において、日々新しい作品を産み出さなければならない立場にある以上、クリエイティヴな仕事をいつも自分に課さなければならず、そのために有益と思える日々の過ごし方を自分なりに模索し、自分の能力や癖を知ったうえで自身に合った生活習慣に日々擦り合わせていこうと努めている次第である。A地点からB地点に移動する際に、最短経路が良いのか、最短時間が良いのか、通りすがる道の景色こそが重要なのか、足の裏に受ける刺激が必要なのか。些細な事柄でも、その場その時の条件次第で選択肢それぞれの重みは変わる。選択の違いがもしかしたら自身の生活に思わぬ発見をもたらすかも知れない。だがしかし、この選択をすればこういった結果が得られる、という戦略的意識的な手段としてではなく、見返りの期待ができない博打みたいなものであるのは自認している。際立った才能も無く、チャンスが巡ってきたとしてもそれと気付かずものにできないだろう間抜けな自分が、それでも彫刻制作を生業として、かろうじてでも成立させるために、自分なりに日常生活に心掛ける身の置き方のひとつとして、箒と塵取りでする掃除をとりあげた。
うだつの上がらない彫刻家が世界を理解したような顔をして持論を展開しても何の意味も無いのだが、50年近く底辺の生活をしながら思うのは、我々一人ひとりの存在の実質的な大きさである。どんなに賢く生きようとも、たかだた一週間程度の天気くらいしか先読み出来ない人間である。人より賢く生きることで得られる優位な立場というのも、その裏側にある実情さえも存在意義があるのか、ということは疑う余地が常にあるし、楽に快適に生きること、あるいは華やかさを手に入れることと、それらの裏の側面の落とし前をどうつけるのか、ということはできる限り忘れずいたいと思う。
裏側を全く意識せずにいられるのだとしたら、もしかしたらどこか遠くの思いもよらない誰かが、その負荷を背負っているのかも知れない。スピリチュアルな因果応報を云っているのではなく、熱力学の第二法則に近いイメージの話である。スイッチを入れて部屋の明かりを灯してみればわかることで、その明かりは遥か遠くからタンカーによって運ばれてきた原油を誰かが電力に変えてくれたおかげという類の、快適さと、その裏側の実態のことである。