心の病

日本における三大疾病は、癌、心疾患、脳血管疾患だそうで、日本人の病気による死因のトップ3ということらしい。心疾患と脳血管疾患は生活習慣病としても耳にする。先天性の病気や障害などを除けば、多くの場合、疾病と日常生活の習慣は密接な関係があるのは疑えない。癌については未だいろいろと不明な点は多いようで、癌細胞発生のメカニズムに遺伝的要素が関わる場合もあるらしいのだが、大まかには癌も生活習慣病と言えるだろう。

歴史的に見て、病気は時代とも密接に関係している。1980年代、僕が幼少の頃、癌で亡くなる方が急増し、その当時、主治医は癌患者に告知をしなかった。癌はとにかく死ぬ病気と思われていたからだろうと思う。外科手術においても内視鏡など使われていなかったので、今と比べると手術自体も切開跡が大きく残ったり、後遺症が残るような手段だった。

勘の良い患者は自分が癌であることを告知されなくても気付いてしまったり、摘出手術が運良く成功して、無事に治癒してしまった場合には、自分が癌であった事実すら知らないままだったりもした。抗癌剤らしきものを投与されたと医者を逆恨みする患者もなかにはいたようだ。

今では癌の初期状態であろうが末期であろうが、見つかれば告知である。もしかしたら知らなくても良い場合だって無くは無いだろうが、良くも悪しくも見つかってしまったら知りたくなくとも知らされるようになった。

人間社会と病気が時代と密接に関係しているのは、医学の発展と共に未知の病気の存在が明らかになったり、時代と共に生活習慣も変化するためであろう。生活習慣が変われば我々の身体の素性も変わってしまうから、当然ながら身体にも不具合の出方に変化がもたらされる。

戦後、急激に変化したのは大量消費社会による産業の工業化である。化学薬品の使用は瞬く間に増幅した。環境汚染も瞬く間に増大した。化学薬品と環境汚染物質が相関していることは、残念ながら病気によって判明することもある。公害病のように症状が顕著に現れる場合は環境汚染物質の使用が制限されるが、人体への症状がすぐには現れずに、長い年月の蓄積によって疾病に到るような場合、原因となる化学物質の存在はすでに社会の一部となっていて、元の薬品を社会全体から取り除くこと自体が困難になることもある。

生活習慣病が厄介なのは、体調の悪化が実に緩慢なので、病気に向かっていることを本人が自覚しづらいという点にある。生活習慣そのものが自身を病気に追いやるのだから、根本的には生き方を変えなければ生物としてアウトなわけである。一方で我々は人間である以上、社会のしがらみから完全に自由になることはできない。生活習慣病とその治療は、薬剤の効き目や治療法の如何にかかわらず、患者自身の生き方を変えなければならないという困難が付いてまわる。

ところで社会生活の変化のスピードが益々加速しているのは誰でも気付いていることと思うが、ここ数年、精神疾患が急激に増加している。精神疾患はほとんどの場合、脳機能障害と関係がある。脳そのものに機能障害がある場合、臓器としての脳に疾病を引き起こしている。生活習慣病は動脈硬化や、発癌性物質の摂取など多岐にわたるが、我々の現代生活では、臓器としての脳すらも生活の中で冒していることになる。

精神疾患の治療が厄介なのは、ほとんど場合で外科的な検査や手術が出来ない点にあるのかも知れない。経験則で効果が期待できる薬剤の処方が、現状の主な治療法になっている。

精神疾患が生活習慣病のひとつとなり得るのは、現代の日常生活にどうも病魔が潜んでいるらしいことが薄っすらと見え始めているからである。脳に対する外科的な検査では未だ解明出来ないことが多い点を踏まえると、精神疾患は多くの場合、仮説や前提を踏まえて治療を進めるより他ない状況に陥ってしまう。そしてほとんどの治療において、それらの前提や仮説は説明されない。

大雑把に言えば、意識や記憶が脳の働きによるものという漠然とした事実以上に、人類は脳における自発的な活動のほとんどを解明してはいないからだ。患者の脳を外科的に検査することはできないし、実際に外科的な検査をしたところで意識や記憶の正体が判明するとは限らない。経験則で症状が改善すると知られる薬剤に頼る以外には、実情、効果的な対処の方法が確立されていない。入眠することも、目覚める瞬間も、ネガティブ思考の排除も、基本的に直接のコントロールは出来ない。優れた研究者達の弛まぬ努力のお陰で、現在では多くの、効果の望める薬剤が使われているが、それらが疾患そのものを治癒できるわけではない。あくまで症状の改善が見込める、というのが実際で、脳機能を正常化させるのは自身の身体そのものである。医師の指導に従って正しく薬剤を服用することは、身体が養生する体制を整えるために有効な条件になる。その前提を肯定しない限り、医師との治療は全く進められない。

科学技術の発展や優れた研究者達の成果によって、脳科学の知見は飛躍的に高まった。しかしながら僕にとって未だ不可思議なことは、脳そのものの主体についてである。

例えば今、僕が本を読んでいるとする。本のページに記載されている日本語を眼で追い、文章を解読しながら、空想の中では本の内容の景色をイメージしている。この一連の思考の働きから生じる脳内の現象を、電気信号として正確に再現できる機械装置を発明したとしよう。その装置の中では、僕が本を読んで景色を空想しているときに起こる脳内の電気信号のやり取りが全く正確に再現される。一方でその装置の中では、その本に説明されている景色を空想する主体が欠けていることに気付く。つまり、電気信号を正確に再現することに加えて、それらの信号を受けて景色を空想する主体が必要になるのではないか、と僕は疑うのである。

僕らの脳にも、シナプス結合と電気信号の局所発火を感知して、記憶を再構成してイメージする主体があるのではないか、と想像する。しかし、実際に現代科学が検知できているのは、脳の電気信号発火のみである。つまりは精度の高いMRIからでも僕の空想を再現して見ることはできない。

現代では人間が人間たる所以を脳に集約したがる。人間は結局のところ脳であると。確かに現代社会は心の時代と言えるかもしれない。しかし勘違いしてならないのは、脳が人間なのではない。記憶を空想し、感情を上手にコントロールできたとしても、人として行動に移さなければならない。引き籠って微動だにしなければ脳の健全性は保たれない。行動にはやっぱり身体が必要である。首から下がやはり重要なのである。

脳の働きを考えれば誰もが不思議に思うであろう、脳内で発火する電気信号から具体的な記憶やイメージを構築する主体、脳が神経伝達と統合の器官ならば、記憶やイメージや思考を電気信号から生成する主体は何が担っているのか。その主体をホムンクルスと呼んだ時代が過去にあった。ペンフィールドのホムンクルスではない。脳内の電気信号から、空間を占めないイメージを生成することができる主体のことである。言い方は悪いが脳機能障害とは、つまりはこのホムンクルスが障害者になってしまったような状態かも知れない。彼を脳から引っ張り出してどこかの専門病棟に入院させることが出来れば効果的な治療を望めるだろうが、ホムンクルスは脳の管制塔であると同時に、我々一人ひとりの人格でもある。彼だけを引っ張り出して入院させるのは物理的に不可能である。

ところで脳を機能障害にまで追い込んでしまう現代社会の生活だが、具体的に一体何によって機能障害がもたらされるのか。これもまた確証することはできず、どんなものであれ仮説の域を出ない。

忙しく肉体労働に従事していれば、労働に勤しんでいるあいだ、脳は身体を正確に作動させるべく的確に、しかも微細な指令を四肢に出すことがノルマになるわけで、運動とは関係ない不安や心配を脳内に発生させる暇を与えないことで、精神活動の安定化を図れるというメリットがある。精神疾患の大敵となる不安や心配というのはもともと空想の空想みたいなものである。脳内で入力から入力という無限ループを繰り返すよりも、適度に脳から出力して、身体の運動へと変換することが脳をより健全に保つ、という理屈である。しかし、すでに精神疾患を患っている場合は、普段出来ることが出来ない状態にあるため、まずは肉体労働が出来る状態に脳を回復させることが前提となる。つまり肉体労働は病気になりにくくするための予防的生活習慣のひとつであって、治療法ではない。

精神疾患に陥る原因の一つとして不健全な思考癖が挙げられる。医学的には自己肯定感の低下などと言われる。平たく言えばすべてを否定的にしか捉えられない思考癖であるが、ストレスフルな現代社会では、本人の如何にかかわらず外的要因によって健全な精神状態をどうしても保てない場合も少なくない。そして悪いことには諸々の事情でその状況から抜け出せない、という負の連鎖を抱えることが珍しくない。日常生活に潜む病魔である。

考え方や気の持ちようで不安や心配を無くす、というようなセラピーもよく耳にするが、そもそも空想の空想を別の空想でコントロールするというメソッド自体、理論的に実現性の乏しさを感じずにはいられない。考え方で障害が克服できるほど、脳の神経活動は軟弱でないだろうと僕には感じられる。考え方を変えるセラピーというのは、習慣化してすでに馴れ親しんでしまった思考回路ではなく、言ってみれば思考回路の裏路地を見つけるようなもので、通路は発見したものの、いざそこを歩くにはやはり不慣れな迂廻路である。思考を変えるセラピーはあたかも裏路地をちょこまか歩くようなもので、大きな波が来たときにその裏路地だけに流れを限定することは根本的に無理がある。

一方、現代社会におけるシステムがもたらす悪影響について考えてみると、例えば、知らなくても良い情報に翻弄されてしまうのは現代社会において周知されている弊害である。得ることのできないもの、あるいは得る必要の無いものに強く執着してしまったり、それらに手が届かない現実に絶望してしまったりする。不適切な表現かも知れないが、津波で家族と全ての財産を失ってしまったら、現実に絶望して当然であろうし、どうやって立ち直ることが出来るのかを想像することすら困難極まりないと思う。しかし、現代社会における絶望はほとんどの場合において実際は勘違いかも知れないのである。手が届かないものを得られるものと勘違いしているだけだとすれば、もともと失ってもいないし被害も受けていない。

日ごろ目にする膨大な情報は、世界の実態と自分の生身の姿の多くの部分を隠している。繕った情報に晒され続けるうちに、きっと脳は知らず知らず勘違いを続け、それを長い間繰り返しながら、致命的なエラー、つまり機能障害を引き起こすのかも知れない。現代社会には本当に見事に繕われて見破れない虚構が至る所に構築されてしまっている。そして我々はそれら虚構を真に受けてしまう。

こういった懸念以外にも、物理的な影響として、殺虫剤や除草剤など、我々が摂取する食品に含めれているであろう化学物質の体内残留を問題視する声もある。それらが引き起こすかもしれない障害として、いろいろな複合的条件と相俟って引きこもりのような症状が現れる可能性が一部で指摘されているからである。同様の化学物質を投与し続けた動物実験で、それらの被験動物に不安障害のような行動力の著しい低下がみられたという。

もしもこの症状が事実であるとして、人間にも同じように症状が現れるのか否かを実験することはできない。精神疾患の治療においてこの方面への研究が主流にならないのは、健康な人に対しての実験や検証が不可能であるという点にあるのかも知れない。医療は実際にデータにできるものだけを扱う傾向がある。つまり、証拠を得られないものは無いものと見なされる。電子顕微鏡が発明される以前は、光学顕微鏡で見えるものまでしかあたかも存在していなかった。

精神疾患は確実に存在していて、我々の心は実際に蝕まれている。不適切な環境にやむなく縛られ、不自然な情報に晒され続けて、それに適応するべく脳が自己修正した結果がつまりは脳機能障害なのかもしれない。人類の数十万年の歴史の中で、これほど身体を使わない生活はかつて経験したことがなく、空想に空想を重ねる不安や心配を、ひっきりなしに脳内で生成しなければならない状況も、現代ほど過剰に経験したことはかつてなかったはずだ。遺伝的要素もあるにせよ、とにかく僕らの脳は機能障害を得やすい状況にある。

ところで結局、僕らの頭蓋骨の中にホムンクルスは見つからなかった。ホムンクルスが脳内いると信ぜざるを得なかったのは、そうとしか考えられない退っ引きならない理由があったからだろうが、現代ではそれ自体が問題視されなくなった。科学の発達が前提と仮説を刷新したのだろう。もしかしたらホムンクルスが別の何かに取って代わっただけかも知れないが。

医者は人間の身体をよくよく理解するべく、日々研鑽を重ねている。療養環境さえ整えることが出来れば、有効な治療も可能である。しかし、根本的には対症療法しかできない事実を考えると、大切なのはやはり自身の治癒力で、その意味で生命の神秘はやはり嘘ではない。

この疾患は今後ますます増大すると思う。そして時間と共に治療法も変化していくことだろう。この数十年で癌治療が大きく変化したのと同じように、脳機能障害の治療も今後、より繊細に発展していくに違いない。