Eugène Atget

Eugène Atgetは20世紀初頭のパリの街を撮影したフランスの写真家である。

僕自身は恥ずかしながらこの人物の存在を全く知らなかったのだが、写真家深瀬昌久のアーカイヴを務めるトモコスガさんのYouTubeチャンネル“言葉なき対話”で、この写真家が取り上げられていたのを拝見して、Atgetという写真家と彼が残した仕事の片鱗を見た。

人間は誰しも自分の出生を選ぶことはできないが、Atgetは幼少期に不幸にも両親を亡くしてしまっている。5歳という幼さで孤児となり、パリに住む叔父に引き取られたらしい。両親の不在がその子供を不幸にすると決まっているわけではないが、だとしても周囲の友達とは違う境遇にあったことは確かで、彼の心の奥を推し量ることはできないが、彼が背負わされた孤独は、周囲の友達たちの誰よりも早くから一人立ちを望ませただろうことは想像に難くない。

彼と叔父の家族とがどういう関係にあったのかは知る由もないが、思春期の彼にとって一刻も早く自立したいという想いは、日を重ねるごとに強い要求となって、彼を追い詰めたのかも知れない。

Wikipediaによれば通っていた神学校を中退して商船の給仕となり、とりあえず自立した生活を手に入れる。しかしその仕事が自分の一生の仕事にはならないことを自覚していた彼は、しばらくしてパリの戻り、演劇学校に通い始める。21~22歳のことである。しかしながら今度は兵役のために、またも学校を中退することになる。彼がどういった種類の俳優を目指していたのかはわからないが、学校に通うほどなので舞台の主役を務めるような俳優を目指していたのかも知れない。この時代は撮影装置も一般的にはまだ珍しいものだったはずで、フィルム映画は存在していなかっただろうと思う。

自身の境遇と、おそらく自分自身の性格的特性も相俟って、演劇学校での修学を断念し、その代わりに地方を回る旅芸人の一座に加わって、そこでとにかくも役者となった。

しかしその旅芸人も彼の一生の仕事にはならず、41歳のときに三度パリに戻り、今度は画家を目指したという。

彼が写真家としてパリの風景を撮影したのは、どうやら8×10インチに近いのガラス乾板の暗箱カメラだった。写真撮影を始めたのがきっかけで画家を目指そうと考えたのか、あるいは画家として活動するための取材記録用としてカメラを手に入れたのか。どちらが実際だったのかはわからないが、とにかく彼は画家にとって写真がいかに優れた素材であるかということを直覚したことは間違いない。

彼の実の父親は大工であったし、旅芸人一座にいた頃においても、ものを作るということは彼にとって身近なことだったと考えられる。もしかしたら遺伝的素養もあって、若い頃からそれなりに絵心はあったのかも知れない。というのも41歳にして画家を目指すということ自体、単なる思い付きで突っ走ったとはちょっと考えにくい。つまりその歳で画業につくという判断は全くの無経験ではなかったことを僕に想像させるのである。どういった経緯があって大判カメラを入手できたのかは知らないが、いずれにせよ当時では、大判カメラを所有し、それを使って生計を立てるということ自体が特殊であったと想像する。大判カメラの写真を使って、誰にも描けないようなリアリスティックな絵画を自ら手掛けようと考えたに違いない。

しかし、事は想像していたほど容易いものではなかった。たとえ他の画家たちが持っていない、写真という、絵画のための極めて優れた素材を持っていたとしても、パリの画壇で活躍する一流の画家たちの“本物の絵画”を前にして、自分の絵はそれらに到底及ばないと自覚するのに大した時間は要しなかったと思う。

写真撮影を本気で取り組んだことのある人ならば誰もが同意することと思うが、カメラを操作して撮影するというのはとても魅惑的な作業である。そしてそのあとには現像というプロセスがあり、それがまたとても奥の深い、スキルと美的センスの両方を高いレベルで要求される作業で、これに魅せられた人はそこから抜け出られなくなってしまう。

Atgetはおそらく世界のなかでカメラに魅せられた極めて最初期の人間だったのだろうと思う。

自分自身がそれなりに絵心を持っていたからか、あるいはパリの画壇で活躍する一流の画家の作品を身近で見ていたからか、いずれにせよ彼の眼は写真を撮影するうえで要求されるセンスを高いレヴェルで有していたのはずで、撮影と現像を繰り返すたびにAtgetは自身の上達を実感していたし、また更なる高みを目指してこの仕事に熱中していったのは明らかである。41歳から亡くなるまでの30年の間におよそ8,000枚の作品を撮影したと言われている。つまりもう彼はそこから逃げなかった。その必要はなかったからである。

Atgetは画壇で活躍する一流の画家たちに有用な写真を撮影し提供した。パリ市歴史図書館などからも仕事の依頼を受けていた。今で言う職業カメラマンという立場に近いかも知れないが、写真を要求するということ自体が稀有だった時代である、写真それ自体が特別なものであったわけだし、それを制作する彼自身も間違いなく自分の仕事に誇りを持ていたと想像できる。

彼は自分の撮影した写真にはクレジットを残さなかったし、それを固く拒んでいたというエピソードを、写真家であり前衛芸術家であったMan Rayが逸話として残しているそうだ。

Atgetの手掛けた無数の写真のどれもが作家としての自己主張の無い、言ってみれば匿名性の強い写真であると一般的には言われる。なるほど、彼の写真を買い取っていた客である画家の立場から考えれば、自己主張の濃い風景写真を自身の絵画作品の資料として利用するには憚られる。

それはその通りである。Atgetはあくまで資料としての運用を目的とした写真の制作に拘っていた。言い換えればそれ自体は作品ではなく、絵画という芸術作品をより高いクオリティで完成させるためのプラスアルファのアイテムとして、自分の撮影する写真に存在意義を見出していた。絵画においては画家のサインが必要とされるのは言を俟たないが、写真はカメラという機械が撮影したものであって、写真家が絵筆を振るったものではない。そこにクレジットを残すというのは思い上がりも甚だしいとAtgetは素直に考えていただろう。幼くして両親と失い、船乗りや旅芸人でなんとか食い繋ぐような生活をしていた彼には、当時の前衛芸術の動向などまさに他人事であったに違いない。毎日毎日、昨日よりも良い写真を撮影することが彼の生き甲斐であって、彼の生活にそれ以上望むことはきっと無かっただろうと僕には感じられる。

Atgetが写真を手掛けるようになって十数年が経過した頃、奇しくも時代はDuchampのReady-madeにあたる。Duchampと交流の深かったMan RayがAtgetの写真と満を持して出逢い(Manだけに)、これこそ僕らが求めるこれからの芸術、と彼をして言わしめた。Atgetにはそんな時代の最先端の潮流に便乗すること自体、興味が無かっただろうと思う。そんなふうにして自分の写真を祭り上げることは決して望んでいなかった違いない。しかしだからと言って自分の写真を何の価値も無い既製品とは思っていなかった。千人に1人という優れた舞踏家ならばその動きの影を見るだけで誰の舞踏なのか一目瞭然でわかる、というように、Atgetは自身の撮影した写真にはサインなどする必要はないというほどに、自分の写真に対して揺るぎない自負を秘かに抱いていたと僕は確信している。少なくともパリにおいて自分以外に誰もこれ以上のクオリティの写真は撮影できないと。その自負がなければ死ぬまで写真を撮り続けることはなかったろうとすら思える。

Atgetを写真撮影に没頭させたのは、突き詰めればそれこそ人間の本能に行き着く以外に無いと思う。人間の哺乳動物としての生存戦略においてPassionがなぜ有用なのか、必要なのか、理屈で解き明かすことはしないでおく。そもそも僕にはそれが出来ない。しかしPassionが人間を創作に向かわせるのは恐らく間違いない。そして奇妙なことには、Passionによってつくられたものを見て、人はまた自身の内側のPassionを揺さぶられる。 Passionは別のPassionに火を灯す。

現代のアート作品は少なくない場合において投資目的で取引される財産としての存在意義がある。さらにはお金を洗浄するための仲介役としても重宝されているそうだ。こういう背景を考えると現代アートを生産すること自体、それにそぐわしい現代の意義がありそうである。数千年続く人類の芸術行為に現代的な役割を付加したし、制作にかまけるための言い訳もより複雑怪奇になっている。Passionの出所と向かう先も別の部分に転嫁していると見たとて、あながち間違いではないだろう。

昨今、とかく人はちやほやされる方に流れるし、世間もとにかくちやほやしたがる。Passionに火を灯す経験に乏しかったからなのか、もはや火を灯せる部分を自身の内側に見出せなくなってしまった人々は、放火先を寸暇を惜しまず目を皿にして探している。