真実を観る眼差し

 一眼カメラの売り上げが年々下がっていることは良く言われている。スマートフォンに高性能なデジタルカメラが内蔵されていることで、もはや高性能な一眼カメラを持ち歩く、という動機が減退しているのは、影響としてかなり大きい筈だ。

 一眼カメラは年々、高額になってもいる。販売台数が減少しているので、一台の単価が昔と比較すれば高くなってしまうのは致し方ないし、カメラメーカーもそれぞれが製造工場を常に稼働させなければならない、というノルマを考えれば、定期的な新商品の開発、新商品と旧型を隔てる機能的な進化、これまでにマーケットに無かったスペックのカメラボディやレンズ、常に何かしらの新製品を開発し、製造していかなければならないなかで、メーカーの存続、黒字経営の課題は年々困難になっているだろうと想像できる。

 一眼カメラをしっかり使っている人には、スマートフォンで撮影される画像と一眼カメラのそれに差があることは実感している筈だが、さりとて、この御時世で仰々しく一眼カメラを常日頃から持ち歩かねばならないほど、スマートフォンのカメラ性能はもはや脆弱ではない。むしろ、スマートフォンに内蔵されている、複数の焦点距離をカバーするカメラ性能を圧倒的に凌駕することのほうが、もはや難しいとさえ言える。工業製品の製造において、昨今の技術革新は本当に目を見張るものがある。ナノテクノロジーなどと言葉では良く耳にするものの、実際にその技術がどれ程優れているのかということを大抵の消費者は知らないだろう。もちろん僕もその大抵の内の一人である。

 スマートフォンのカメラ機能がどうあれ、我々にとって撮影すること、写真を撮る、という行為はやはり理屈抜きに面白い。撮られた写真を見るのも大きな楽しみの一つである。それらの理由を一つ一つ挙げていくことは、撮影の価値を再認識する上でとても価値あることと思うが、写真を撮影して、それを眺めることに飽きていない人であれば、根掘り葉掘り理屈を確認する必要は必ずしも無いだろうと思う。それよりも撮影に対して常に好奇心旺盛であり続けることのほうが、理屈を構築することよりも難しいし、そして価値あることのような気がする。

 写真撮影にもいろいろなジャンルがある。ジャーナリズムにおける様々な出来事の記録、スポーツシーンでの記録、自然風景、野生動物の生態、ファッション業界の広告、各種製品の広告など。撮影自体を生業としてプロフェッショナルに従事するフォトグラファもいるし、趣味で写真を撮られる方も沢山おられる。単純に、自分が写真に収めたい瞬間を、上記のジャンルに捕らわれずに撮影する、というのも写真撮影を愛好する大きな動機になる。

 35ミリフィルムを使ったスチル撮影用のカメラの登場は、いわゆる写真機が一般人に広く普及するきっかけとなったと言われている。35ミリ版のスチル用カメラを工業製品として世に送り出したのはErnst Leitz社である。設計は元Carl Zeissの技師であったOscar Barnachである。今でもレンジファインダーカメラを製造しているLaicaの、現行M型の前身であり、世界を席巻したBarnack型カメラは、1925年の登場から数十年に渡って世界中で使用された。今から百年前の出来事である。

 Ernst Leitzの35ミリ版カメラが一般庶民にも広く行き渡ったかどうかは知らない。量産型のLeica I型(A)の登場からおよそ30年経った1954年、日本に輸入されたLeica IIIfとSummicron 50mm F2のレンズセットがカタログ価格で18万5千円となっている。当時の18万5千円である。大卒の初任給が一万円程度であったらしい。ちなみにドイツ本国の価格は914マルク、当時の日本円に直接換算すると7万8千600円とのこと。海外からの輸入品に掛かる関税もたいそうなものだった。日本からドイツまで出向いて品物を引き取りに行く往復の旅費を考えれば、輸送費その他諸々10万円は高くないのかも知れない、売値自体は高額だが。

 いずれにせよ、世界のあちこちで手軽に写真撮影が行われるようになってから少なくとも70年程は経っている。その間に多くの写真撮影愛好家が家族の肖像や日常の出来事にカメラを向けて、写真を残してきた。写真撮影の楽しみのひとつにストリートスナップというジャンルがある。誰が始めたというわけでもなく、きっと写真機を手にした人の大多数が、シャッターを切りたくなる被写体として日常の市井風景を意識したのではないかと思う。おそらく同時多発的に世界中でストリートスナップが撮られたのではなかろうか、と僕自身は考えている。

 たしかに、実際に自分でカメラを片手に街を散策してみると、ハッと思う瞬間に遭遇する。その瞬間に遭遇するにはそれに気付くための集中力を要するが、その独特の集中力はカメラを手にしない限り、ただ街を散歩しているだけでは得られないものでもある。そうやって集中して、意味もなく、しかしながら被写体との遭遇という明確な目的をもって散策してみると、自分の視点が一体誰の視点であるべきなのか、という命題にぶつかる。

 僕が良く考えるのは、例えば交通事故での有責問題である。交差点で自動車二台がすれ違いざまに衝突したような事故の場合、その事故現場に警察が入り、現場検証を実施して、それを元に自己当事者間の保険会社がそれぞれの過失割合を決める。最近では防犯カメラの設置が拡充していることもあって、特に交通量の多い交差点などでは、第三者の目撃証言が無くとも、場合よってはある程度の信評性を担保する事故当時の状況を、防犯カメラによって判断することが出来るようになった。その防犯カメラの声なき証言が、時として、事故の当事者たちの証言と食い違うことも少なくない。それが意味するのは、事故の当事者達の視点は、物理的な意味で、お互いに一方的であり、かつ、限定的である。当事者各々の感情が介入してしまうことも、事故原因の第三者的事実と相違を生む要因なのかも知れない。防犯カメラが無く、また誰一人その現場を目撃した第三者がいない場合には、事故後の警察の現場検証に頼らざるを得ない。しかしながら事故の瞬間を記録することと、事故後の現場を検証するのとでは、事故の瞬間を正確に記録する、という観点において、同等とは言えない。防犯カメラだって、カメラの設置場所や画角、撮影画像の解像度を考えれば、事故検証の正確性という観点において常に完全無欠の証拠など得られる筈もない。

 グローバルな360度の視点を持って、事故の瞬間を観察していた人が仮にいたとすれば、それは神様である。神様だけが真実を知っていて、神様だけが正確な事故原因を知っている。神様以外には完璧に事故の原因や過失割合を判断できる者は、本質的に存在しない。警察の現場検証に因る判断も、“おそらく”こういう原因だろうという括弧つきである。

 しかしながらこれは交通事故に限った話ではないのである。この世の中のあらゆる真実は、実は神のみぞ知る、であって、この世界の唯一の真実は誰にとっても仮想の域を出ない。今この瞬間の世界も、実は人の数だけヴァリエーションがあって、しかも唯一の真実には誰も到達することができない。

 ストリートスナップにおける写真は、写真を見る人に、誰の視点でもない空白の視点を与えることが出来るかのような、なんとも奇妙な側面を持っている。ストリートスナップが神の視点を獲得することはないのだが、しかし、その場を行き交う人の誰でもない視点が、その写真を見た瞬間に生まれるように思う。そのことは僕にとって、とても魅惑的な現象である。だから僕は常に、誰も僕の存在を気に留めていないうちに素早くシャッターを切るよう努めている。僕と、ファインダーの中の人とがお互いの存在を察知してしまった瞬間に、空白の視点に撮影者の存在が割り込んでしまうからだ。視界の外で誰かの存在に気付く瞬間も、それはそれでまた興味深いのだが。

 写真に限らず、あらゆるジャンルの芸術においても、新しいことは全てやり尽くされている、という見方がされることは少なくないが、どうあれ、世界は過去を置き去りにして、予測不能な未来をちょっとずつ吞み込んでいく。僕らが眼にする今日はいつも新鮮である。今日が一番新しい。誰も知らなかった今日をどう過ごすのか、という意味において、この世界にやり尽くされてしまったことは存在しないと言える。ストリートスナップが単なる街の肖像に留まらずに、第三者という立ち位置すら飛び超える存在を生成するという意味で、カメラという道具が持つ、スペックには現れない奇妙な能力を炙り出す撮影技法なのかも知れない、と尤もらしい屁理屈を考えて、機材購入を経費で落とす言い訳を、赫々然々捏造する今宵にて候。