突き刺さること
人工知能の台頭に少なくない人々が不安を覚えている昨今であるが、機械が人間の仕事を補うのは今に始まったことではない。肉体労働の機械化工業化はイギリスを中心に18世紀後半に開花し、その流れはヨーロッパ各国へと瞬く間に広がった。日本においても明治時代に、ロシアの領土拡大を阻止するべく開戦された日露戦争では、既に騎兵戦ではなく、機関銃や軍艦による工業的な軍事力を基盤としていた。
太平洋戦争後は益々、機械が我々の肉体労働の代役を果たし、我々自身は機械では補えない、人間同士のサービスに携わることに注力してきた。戦後発展したいわゆる第三次産業は、サービス業を中心とした、商品の製造以降の売買取引、それにまつわる広範な通信、物流などのロジスティクス、様々な商品を店舗で提供する際の顧客サービスなどに人間の労働力を充てて発展したものである。
だがそもそも、商品を販売することで生業を成立させるためには、作った物をなるべく効率良く売却しなければならない。それ以前は肉体労働によって生産製造していた業種や職場、人材の多くが、商品を提供する側へと移動したため、商品購買における人々の選択肢は膨大に膨れ上がった。効率良く商品を売却するために世界規模で競争が始まり、その競争は激化する一方で沈静化する兆しは見えない。他社に一歩リードするためのあらゆる戦略を練り、実現し、売り上げに直結させることが販売業者の第一目標になっている。数多の選択肢の中から、人々を自社商品に引き付けるための戦略があらゆる角度から練り上げられ、製造のために投資され、高効率な売却のために投資され、他社よりも一歩先んじるために投資される。
肉体労働から人間を解放したのは産業革命の恩恵だが、それはまた流通手段においても大変革をもたらした。生産と流通における労働力を機械化したことで、リソースは量的に大幅拡大した。それが高効率化と言えるかどうかは現時点では判断しかねる。生産と流通の高効率化は多くの場合、労働力を生むために必要とされてきた資源が、人ではなく化石燃料の消費に置き換えることで成立してきたもので、リソースを増やすことは別の資源の大量消費無しでは実現できていないからである。現代の問題は、その別資源を消費する際に、環境をエントロピーの高い状態に変えてしまうことであり、その資源そのものは将来的に枯渇する。
流通の手段はどうしても具体的な輸送に頼らざるを得ないが、テリトリーの拡大や取引手段簡略化に極めて大きな変革をもたらしたのがインターネット通信である。この通信網はグラスファイバーの回線から、生活空間を飛び交う電磁波まで多岐にわたるが、回線は地中に埋められているし、電磁波も生身の感覚では全く察知することはできない。それらが全て可視化されたとしたら、我々がすでに身動きの取れないがんじがらめな状態であることに気付くであろう。
そして今、時代は人工知能である。Artificial IntelligenceでありDeep Learningである。これらの技術が人間社会の在り方を変えていくことは明白であるが、人々の生き方や健康にどのような変化と影響をもたらすのかは今後しっかり観察しなければならない。マクロの視点において、人間社会の営みが少なからず地球環境そのものに変容をもたらしていることは明白だが、ミクロの視点においては個人の幸福の追求が、ある意味ではその人の生活をかえって辛く、苦しいものに変えてしまうことにもはや疑いはない。幸福を追求しない生き方、あるいは幸福を実現できない存在は意味を成さないとさえ考えられている。
今、自分がこの世にいるのは両親が自分を生み育ててくれたお陰であり、ひいては祖父母が両親を生み育ててくれたことの恩恵である。今ここにいる自分が受けた恩恵を辿ると、膨大な人数の、血を分けた血族が過去に生きて、それぞれが各々の子孫を残し、一度たりとも途絶えずに皆が子育てを継続してきたことの賜物であると気付かされる。全ての人も、全ての動物も植物も、命あるものは全て、原初の命から途切れたことのない一直線の血筋を引いている。その遥かな血筋を、このちっぽけな自分の幸福実現のために絶やしているのが、現代の人間社会である。
生命の、最も根源的なミッションは命を繋ぐことである。そのミッションが最重要課題でなくなった背景には様々な要因が考えられるが、いずれにせよ、後戻りして修正する、というわけに行かないのは明白で、これから進むであろう人類の歩みが何処に向かうのかという予測と、必要とされる修正は、社会に迎合して過ごしているだけではもはや掴めず、個人が意識的にその糸口を見出していかなければならない予感がする。世の中は技術の進歩のおかげでとても楽に、安全に生きられるようになったが、その代わり、生まれてきた個人個人は皆全て、人生におけるミッションを自分の努力でゼロから構築しなければならない。本来与えられていた基盤となるミッションは社会がそれをDeleteしてしまったから。健やかに生きるためにはまず初めに、Deleteされたものから何をリサイクルすべきか知る必要がある。生きることは斯くも難解な謎解きになってしまった。
賢く勘の鋭い人であれば、その謎を解くのにそれほど多くの年月を必要としないかも知れない。いつの時代でも社会の変化に敏感で、目指すべき到達点を発見するのに長ける人はいるものだ。しかしながらそういうタレントは極めてマイノリティであることも忘れてはならない。流れに身を任せる多くの人たちにとっては、この謎解きに30年、場合によっては40年近い人生経験が必要かもしれない。そして謎の答えが薄っすら見えかけたとき、時すでに遅しと勘付くのであったなら、皮肉なものだと苦笑いするだけでは済まされない。我々人間自身が自ら家畜化していると云われる現代において、命の役割と生きる意味とを独学で発見するというのは、殊のほか荷が重い。
幼少の頃、巷で流れていた歌謡曲を歌詞の意味も分からずに口ずさんだり、生クリームとみかんの実がぎっしり詰まった三角形のサンドウィッチを、買いもしないのにガラスの外から幾つ並んでいるか確認したり、水戸様の庭園に忍び込んでは乾き物のスルメで、ただただ池のザリガニを釣ったことも、役に立たない戯れで一蹴される。現代では全ての行為に意味を問われるようになってしまった。行為自体に有効な意味があることだけを選択的に執り行うのが現代の生き方である。それを幼少期から実践するのが優遇される世の中になってしまっている。
新しい遊びが登場すれば、次それやらして!と誰よりも先に順番を先取りしようとした、それと同じ好奇心で、僕は今も彫刻を制作している。人々に伝えたいメッセージもなく、人々の記憶に残せるようなインパクトも用意できず、次それやらして、のモチベーションのままに、頭に思い描いた形に具体的な素材を纏わせるだけの行為である。彫刻という作品が有用なのではなくて、能が無いことはやらなくて良いと、お墨付きをもらえるのが芸術家の元々の意義ではなかったか、と時々疑う。能の無いことに従事されるとかえって厄介なのを見越して、人様のお役に立てるかどうかを問わず、役に立たなくてさえ自分の在るがままでいることを黙認されたのが、芸術家の起源ではあるまいか。
夜、真っ暗な自宅に帰って明かりを灯すときでさえ、サウジアラビアの原油に頼ってしまうこの世の中では、夫婦が一人の赤ん坊を宿すことすらもあまりに複雑になってしまった。
そんな世の中では彫刻すら気ままに作ることが憚られるのだが、半世紀も生きていると世間を観る眼も、人々の声を聞く耳も、僕に都合良く退化してくれるようで、踵の擦り減りきった安全靴を履き、歌詞の分からない歌を口ずさみながら、僕は今日も暢気に作業場へ向かう。