あとから読み返して、良く考えてみるともしかしたら適切でないかも知れない、と思えば消しゴムで消すことができるが、口から放ってしまった言葉を取り消そうと思ったら、会話の当人に謝らなければならず、謝った言葉がまた相手を傷つけ、汚れ、傷を深くする。

人類の数十万年の歴史の中で、これほど身体を使わない生活はかつて経験したことがなく、空想に空想を重ねる不安や心配を、ひっきりなしに脳内で生成しなければならない状況も、現代ほど過剰に経験したことはかつてなかったはずだ。

現代社会に生きる僕らは率直に言えば世界を甘く見ている節がある。何か途轍もなく大きな要素をうっかり見過ごしているように感じられてならない。

不味く間違えた過去を取り消すために戻ることは能わないが、その後の悪路に背を向けず歩を進めることが現実として最も重要な筈である。克服できるかはもちろん自分の努力次第であろうが、状況が好転して助けられることも無くはない。

人間は問題を生産してそれを解決する、ということを繰り返して、大きく展開した脳の前頭葉を落ち着かせている。言い換えれば、日常生活で問題を作らないように知らんぷりをして、日がな一日を寝て過ごす、ということに満足できない本能を備えてしまっている。

脚は歩むためにある。右脚のあとには左脚を前に出す。考える必要もないし決断する必要もない。分かれ道に立たされても脚があるのならそのどちらかには進むことだろう。どちらに進むかは頭で判断するよりも先に、自らの脚が決断しているのかも知れない。

生物としての人間は本能的に遊び心を備えていると僕自身は考える。家族や友人がいなくとも、きっと人間ならば自分自身の体力と知力をもってして遊戯を発明したであろう。人間には想像する力がある。我々は空想する。

たとえ望まれない状況のもとでも若者は恋をし、一生を共にする人との出会いにこのうえない幸せを味わっているに違いない。家族を持つ喜びを知り、悲しみを分かつことへの本能的な要求を知り、切磋琢磨することの悦びを知るだろう。