ある惑星が他の惑星の重力に抗えないのとほとんど同じ様子で、人間も互いの存在の影響から自由になれた歴史はなく、物質が重力に捕われたまま運命を預けてしまうように、人間も自らの感情の支配から無重力に至ることはない。

言葉を持たない動物が、愛や幸せを本当の意味で解っていると仮定するなら、明らかに彼らはそれらを極端に深くは追い求めていない。そう考えると、言葉は悟るための道具ではないらしいことが見えてくる。

何か思わぬ失敗をやらかしたり、謂れの無い不運に遭遇してしまうと、僕自身は根拠も無いのに、何かのバチが当たったに違いないと因果関係を求めてしまう。

美しいものを美しいと感じることの本質は、理論体系に頼るのではなく、人類が重ねて来たであろう経験の記憶を呼び覚まして、個人個人がそこに輪郭を与えられるかどうかなのではないか。

集中して、意味もなく、しかしながら被写体との遭遇という明確な目的をもって散策してみると、自分の視点が一体誰の視点であるべきなのか、という命題にぶつかる。