言葉を持たない動物が、愛や幸せを本当の意味で解っていると仮定するなら、明らかに彼らはそれらを極端に深くは追い求めていない。そう考えると、言葉は悟るための道具ではないらしいことが見えてくる。

何か思わぬ失敗をやらかしたり、謂れの無い不運に遭遇してしまうと、僕自身は根拠も無いのに、何かのバチが当たったに違いないと因果関係を求めてしまう。

美しいものを美しいと感じることの本質は、理論体系に頼るのではなく、人類が重ねて来たであろう経験の記憶を呼び覚まして、個人個人がそこに輪郭を与えられるかどうかなのではないか。

集中して、意味もなく、しかしながら被写体との遭遇という明確な目的をもって散策してみると、自分の視点が一体誰の視点であるべきなのか、という命題にぶつかる。

向田邦子さんの素敵なポートレイトを撮影された彼女のフィアンセが、向田さんに持たせたBarnack III型、あの写真が撮られていなければ僕はきっと、一生、このIIIaを手にすることはなかったと思う。

効率は高ければよい、というものではなく、自分にとって馴染みやすいかどうか、という直感的な要素も実は大切である。